象徴の貧困 1

  • 新評論 (2006年4月1日発売)
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記憶を頼りに書いてみるぜ!シリーズ

極右政党のルペンは移民排斥運動や人種差別を掲げているにも関わらず、200x第一回大領選にて1位のシラク大統領に、衝撃の僅差で2位で通過した。また33歳の男がリアリティを喪失して市議会委員を複数名銃殺する事件があった(日本で言えば秋葉原の事件が思い出される)。フランスでのこの事件は象徴の貧困によって引き起こされた(と言い得る)とスティグレールは語っている。

なぜこのような事件が起きたのかというより、こういう事件を引き起こさないためにはどうすればよいのか?という一つの回答を彼は提出していると言える。

上記の意味で他者性を欠いた人とはどのような人であるのか。ハイパーインダストリアルな時代により、マーケティングの攻撃に常時晒されており、『ファイトクラブ』じゃないが、われわれは欲しくもないものを欲しいと思わされている。こうして商品は売れるようになるのだが、本当に自分が欲しいと思う内発的な欲望そのものが否定される。こうしたい!という自分が失われていき、やがてリアリティを喪失する。

確かにそれは同一の意見を持ち合わせた集団とも言える。「みんな」だ。しかし自己を喪失した精神的には貧しい存在であり、苦しい生き方であり、差異を排除した不安定な(実は!)存在である。いいだろう、特異な人間は排除されるのであるのはいいとして、では、彼らになんと言ったらよいのか?「僕たち<みんな>は君のような人間を受け入れる気はありません。どこかへ行ってください」。 Q.どうする? A.「どこかへ行く or鬱積して爆発する」。 Q.爆発するならば? A.「自分へ向かう=自殺 or 他者へ向かう=殺人」。異国の地なんて簡単に移れるものではないことは明らかだろう。ならば多くは爆発するしかない。排除とは局所的には安全に見えて、不満分子が危険信号を発しながら抱え込んでいる不安定な状態だ。

差異そのものを組み込んで、不満分子を排除することなくむしろ包接して発展のエネルギーとする。特異な自分にも開かれた共同体こそ選び取るべきではないか。硬直せずに柔軟に変容してみせる<われわれ>が作り上げる共同体だ。西洋の個人主義の伝統から言えば特異性を持ちつつ、話し合い、その上で個を超えた集団としての「われわれ」を実現するということ。さらに言えば、その特異な個はアリストテレスの言う「フィリア」によって結びつく。その根底にあるのは正義の不在としての不正を恥じる気持ち=正義の感情と、あるべき状態になっていないことの恥の感情(これは違うかも。なんだっけな。ちょっと思い出せない。)である。これが個でありながら、それを越出て一つになろうとするダイナミズムこそ西洋の原動力ではないかと。

しかしその個と<われわれ>は産業に押し付けられることで二つは切断される。個というものは産業に応じて頂かなければということ。ベクトルの向きが逆向きになる。特異な行動もすぐにデータベースに入れてモデル化させて、特殊なもの、フェティッシュなものにさせて頂きますという具合。

どうするか。

産業的なものを葬り去ることは現実的ではない。葬るというよりもむしろそれを力として捉えて、「政治」を対抗させる。さらにテレビには映画で対抗する。芸術は馴染みの感性からの逸脱性を秘めているので産業に対する武器になる。ポジションとディスポジション、シンクロとディアクロのせめぎ合いが進歩を生み出すというわけだ。

そして現実レベルの主張をまとめるとこういうことになる。弱者の痛みに配慮せよ。弱者は排除するのではなく、むしろ参加させよ。こうして<われわれ>による意義ある共同体が作り上げられる。産業的なものの視野狭窄や感性の被支配や欲望の搾取に関しては破壊するのではなく、<われわれ>の政治と特異性の教育としての芸術によって相克せよ。こうして象徴の貧困に豊かさを取り戻せ。

すごくマルクスな感じがしました。敵はブルジョワではなく、産業と技術が結託したシステムになりました。また革命の主体はプロレタリアート(今ならばプレカリアート)の金の貧しい人達ではなく、感性を搾取された象徴の貧困者たる人達になりました。そういう感じですね。そして、連帯せよ!象徴の貧困者!ですね。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
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感想投稿日 : 2009年6月26日
読了日 : 2009年6月26日
本棚登録日 : 2009年6月26日

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