ももしきの大宮人はいとまあれや桜かざしてけふもくらしつ
山部赤人
掲出歌は「新古今集」に収録。宮廷の人はヒマなのだなあ、桜の枝をかざして今日も遊んでいたよ、という歌意だ。
ところが、「万葉集」巻十にもよく似た歌がある「ももしきの大宮人はいとまあれや梅をかざしてここに集へる」。作者未詳だが、万葉集では「梅」だったものが、勅撰【ちょくせん】和歌集である新古今集では「桜」に変わっているのはなぜか。その謎を、大胆な仮説で解き明かしてゆく水原紫苑の新刊書が、たいへん興味深い。
天皇が撰を命じた最初の和歌集は、「古今集」である。当時の公的な文芸は漢詩であり、序文を書いた紀貫之は、漢詩以上の価値をいかに和歌に持たせるか、苦心した。漢詩は現実的だ。それを超える言葉の「呪力」を和歌に盛るには、「桜」の力を援用しよう。そこで、桜の文化が始まったとか。
桜は、古来呪力を持つ樹木だった。名所として吉野山があるが、かつての吉野山は、単に雪の名所だった。ところが、古今集では桜の名所として意味付けられてゆく。紀貫之はじめ名だたる歌人が吉野の桜を詠み、いつしか、桜が美の代表的な表象として定着し、そこに、文化表象としての天皇が重なる、という筋書きらしい。
桜は、本当に美しいものなのだろうか。その美が、王権を中心とする共同体の約束ごとであるとしたら―。近年、若者たちに人気の楽曲の歌詞に、桜が多く登場することも水原紫苑は検証している。今、時代は共同体に回帰する方向に動いているという指摘もあり、はっとさせられる。
(2014年4月20日掲載)
- 感想投稿日 : 2014年4月20日
- 読了日 : 2014年4月20日
- 本棚登録日 : 2014年4月20日
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