1973年のピンボール 1973 PINBALL 【講談社英語文庫】

  • 講談社インターナショナル (1997年4月1日発売)
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感想 : 2

「1973年のピンボール」は「風の歌を聴け」に続く青春三部作の第二弾である。
 作品は「風の歌を聴け」から4年たった1973年の秋から始まる。〈僕)は大学を卒業し友人と二人で翻訳を専門とする小さな事務所を開いている。仕事は順調で、事務所を手伝ってくれる女の子はビートルズの「ペニーレーン」を一日に二十回も歌う。僕は双子の姉妹と暮らしているが彼女たちがどこからやって来たのかは勿論、名前も、二人を区別するすべも分からず着ているTシャツの番号で二人を呼ぶ。生活は単調で日々だけが確実に過ぎてゆく。
 一方、〈鼠〉と渾名される男は、そこから700Km難れた街で、親の買ってくれたマンションに一人で住み、土曜しかし、この作品の底に流れているものは直子の存在であることに間違いはなく、彼女は記号化された人物に投影されていると見ていいだろう。それは〈ピンボール〉であり 〈双子〉であり〈鼠の女〉でもある。
 近作「ノルウェーの森」で語られる直子の決して忘れられない思い出と、生きていくことに伴う忘却がこの作品の重要なテーマでもある。例えば、女と別れた鼠は、雨の防波堤で女の部屋の灯を眺めながら、車のシートを倒し、彼女の部屋を思い出そうとするが、照明とカーペットの色がどうしても思い出せずドアをノックして確かめたい衝動にかられる。過ぎ去ったものは細部から記憶が薄れてゆく。忘却とノスタルジイは互いに意識しながらもその境目があいまいになってゆくのだ。ちようどお互い区別のつかない双子のように。霊園は鼠の青春にとってもやはり意味深い場所だった。
まだ、車には乗れない高校生のころ、鼠は250CCのバイクの背中に女の子を乗せ、川浴いの坂道を何度も往復したものだ。そしていつも同じ街の灯を眺めながら彼女たちを抱いた。様々な香りが鼠の鼻先を緩やかに漂い、そして消えていった。様々な夢があり、様々な哀しみがあり、様様な約束があった。結局はみんな消えてしまった〉 「ねえジェイ、人間はみんな腐っていく。そうだろ?」になると女のマンションに行き、日曜は女の弾くモーッアルトを聴いて過ごす。鼠もまた単調な生活の繰り返しである。作品は、僕と鼠の二人の話が交互に描かれている。二人は1970年ごろ、ジェイズバーでビールを飲み続けていた友人だと書かれているが、作品中では鼠と女が別れる話と、僕がかって夢中になったピンボールの台を捜すという話が、全く関わりなく進展する。しかし二つの話は徴妙に感情的に交錯している。この作品の特徴は、登場人物がすべて代名詞か渾名で呼ぱれている点だ。その結果、それぞれの人物像が固定されず交錯し合う。
 唯一、実名で登場するのは 「直子」だが、直子は冒頭で思い出として語られるだけだ。と鼠は言う。「どんな進歩もどんな変化も結局は崩壊の過
程に過ぎないじゃないかってね。違うかい?」「だから俺はそんな風に嬉々として無に向かおうとする連中にひとかけらの愛情も好意も持てなかった」
 鼠がこの街からいなくなったころ、僕は鼠との思い出のピンボールを捜し当てる。  〈彼女はニッコリ徴笑んだまま、しばらく宙口目をやった。なんだか不思議ね。何もかもが本当に起こったことじゃないみたい。 いや、本当に起こったことさ。ただ消えてしまったんだ。 辛い? いや、と僕は首i振った。無から生じたものがもとの場所に戻った。それだけのことさ〉
  〈僕たちが共有しているものは、ずっと昔に死んでしまった時間の断片にすぎなかった。それでもその暖い想いの幾らかは、古い光のように憤
の心の中を今も彷徨いつづけていた。そして死が僕を捉え再び無の堆渦に放り込むまでの束の間の時を、僕はその光とともに歩むだろう〉
  「もとのところよ」  「帰るだけ」 去っていった双子が残していったビートルズの「ラバー・ソウル」を聴きながら、僕が思い出と忘却の間でどう生
きていくのか、それは「TOMORROW NEVERKNOW」で終わるレコードのように、誰にも分からない。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 日本ー文学
感想投稿日 : 2012年4月14日
読了日 : 2011年7月2日
本棚登録日 : 2011年7月2日

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