ルネッサンスの光と闇: 芸術と精神風土 (中公文庫 M 335)

著者 :
  • 中央公論新社 (1987年4月1日発売)
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感想 : 14
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国語の教科書に採用されていた文章を見て、強く惹かれた人物だった。
美術というもの、とりわけ、絵画というものはただ眺めるだけで、そのタッチや色、空間の切り取り方や面の組み合わせ、そういうところでしか感じることがなかった。
そこに何が描かれているのか、それはひとえに描いた人間のみた世界だ。それ以上もそれ以下もない。描かれたものが何を意味して何を表しているのか、そんなことをちまちま考えて絵を見ているとはとてもじゃないけど思えない。それに、あるものが描かれているからそれがすなわちある抽象概念を表すというのが、極めて押しつけがましくて、なんだか好きになれなかったのだ。
しかし、このひとの場合、そんな風に絵を考えていない。解釈とはひとつの物語であることを十分に知っているひとだと思う。
もしその解釈というものが、どこか胡散臭いものであるなら、それは胡散臭いものに支えられているからに他ならない。このひとの絵に対するまなざしは、なぜ、この絵はその時描かれなければならなかったのか、この一点につきると思う。
キリストの降誕や受難、復活といったモチーフはもうずっと言われていることだし、様々な人間がそれに挑んできた。それなのに、ひとつして同じ作品はない。いったいこれはなんだ。このように考えていくと、絵画を描いた人間が身を置く世界というものが見えてくる。
したがって、このひとの絵に対するまなざしは、厳密なイコノロジーではない。そういう流れの中に立って、図像解釈学的にちょっと透かして絵をみているのだ。どこか物語のような類推と飛躍をもちつつ、でも歴史家という人文科学者としての絶えない関心の中で揺れ動いている文章が、小難しい印象を与えないんだと思う。
どういうわけか、イタリアのフィレンツェという一都市のたった数十年間に、それまでの絵画とはまったく趣きの異なる絵画がぽっと現れた。ルネサンスである。では、なぜこの時、この都市でなければならなかったのか、そしてそのような都市でなぜこうした作品群が生まれることになったのか。いったい、そこに置かれた人間がなぜ後に傑作と呼ばれる作品を生んだのか。そういったものをひも解いていく。そのためには、絵のどんな些細な描き方やモチーフも見逃せない。作品はどこをとっても、描いた人間の精神の現われだから。
そこには、画家の批判的な観察と描くことに対しての飽くなき探求、そういった脈々と続く精神のバトンが繰り広げられている。ルネサンスという時代が特異なように見えるが、決してそんなことはなく、ひとつの流れの中、完成されたものだと知る。人間性の復活とは言い切れない、そんな中で画家たちは描いていた。光ある所に闇もある。どちらか片方だけでは成り立たない。世界は、歴史はそんな風にできている。それが当たり前なのである。そんな風に考えるから、当たり前を知るから、その人間の独自性と精神のバトンのコントラストが見えてくる。ボッティチェリの卓越性さはこうして感じられてくる。
なんとことばと似ているのか。そう思わずにはいられない。しかし絵画の面白いところは、その絵が眼前にみせるその印象である。ただ在るだけで、絵はひとに印象を与えるのだ。絵画だけではない、あらゆる芸術とは、働きかける感官は異なれど、そういうものなのかもしれない。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 芸術
感想投稿日 : 2017年3月30日
読了日 : 2017年3月30日
本棚登録日 : 2017年3月30日

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