スマナサーラ長老はとてもことばを大切にされているといふことを感じられる。
わかりやすくブッダのことばを伝へる単純な解説ではない。やさしいことをやさしく書くことは容易い。難しいことをやさしく書くことは容易いことではなく、時に詐欺となる。難しいことはやはり難しいのだ。
さすが宗教家といふこともあり、小難しいことは抜きに、こうしなさい、ああしなさいと非常にことばに力が宿つてゐる。このひとの優れてゐるところとして、かうしたことばがただの命令ではないのだ。確かにこのひとのいふことなら信じられるといふあの確かな信頼が寄せられるのだ。
この信頼は長老自身、自らのことばと行いに絶対の信頼を寄せてゐなければ現れてこない。それと同時に、湧き上がる疑問と常に隣り合わせであることをこのひとはかなり自覚してゐる。
その疑問とは、どうしようもなく、痛みや眠気、どうにもならない感情が人間にあつてしまひ、これを消し去ることが不可能んことではないかといふことだ。
生きるといふことが苦しみであるといふことはブッダも述べたことである。それならば、そも生まれてこなければ済んだ話である。それでもどういふわけか今ここにわたしが生まれてしまつてゐる。わたしといふものはゐないのかもしれない、けれど、確かに何かが”ある”。ことばとともにある以上、存在から、苦しみから離れることはできない。
このひとは、おそらくさうした苦しみがなくせないといふことを誰よりもしつてゐる。だから、無自覚からではなく、おそらく自覚的に命令として「かうしなさい」と発してゐる。分けること、区別することを余儀なくされる人間の思考を滅するために。それは自分に自分で喝を入れるためでもある。
- 感想投稿日 : 2021年1月23日
- 読了日 : 2021年1月23日
- 本棚登録日 : 2021年1月23日
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