ロシア革命――破局の8か月 (岩波新書)

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  • 岩波書店 (2017年1月21日発売)
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ロシア革命というときに、1917年に2段階の革命があり、2月革命はメンシェビキ・ケレンスキーをリーダーとして民主主義、そして10月革命はレーニンをリーダーとするボリシェビキによる共産主義革命という漠然とした知識しかなかった。しかし、この8カ月の連合政権がいかに集合離散の混乱の繰返しであり、10月革命前夜にはレーニンを中心とした暴力革命が起きることは既に確実視されている状況にあったなど、あまりにも無知であった私自身だったかを知った。ニコライ2世が子息の皇太子も含め、皇帝の座を放り出して、弟ミハイルに譲位しようとしたが、弟も辞退などは驚くべき状態である。そして2月革命後の諸政党としてメンシェビキは社会主義者であり、自由主義者の立憲民主党、進歩党などの連立勢力は左派であったのだ。10月革命へ向かう中で、レーニン以上にトロツキーの的確な判断が革命成功に導いたかも知らない事実だった。1917年におけるロシアはウクライナとは全くの一体であり、フィンランドでさえ、ロシアとは自治の大公国であり、この両国が臨時政府に激しく抵抗していたとは100年後の現在を重ねると、皮肉な事実が見えてくるようで感慨深かった。
特に次の文章!「3月28日、首相リヴォフ公の名で市民への宣言が出された。「自由ロシアの目的は、他の 諸国民を支配することでも、彼らから国民的財産を奪うことでも、他国の領土を力ずくで奪う ことでもなく、諸民族の自決に基づく堅固な平和を確立することである」。 領土の奪取に関する部分は、当初の案になかったものが、ソヴィエト側の要請でつけ加えられたのである。こう してペトログラード・ソヴィエトに押される形で、「無併合、無賠償、民族自決」が革命ロシ アの公式外交路線となった。だが、この宣言は妥協の産物であり、ミリュコーフ外交の核心部分も残していた。そもそも それが市民への宣言に過ぎず、公式の外交通牒にならなかったのも、ミリュコーフが頑張った からであった。「だがロシア国民は、この大戦争のなかで、自らの祖国が卑しめられ、その生 命力を損なうことも許容するものではない」という一節は、彼が盟友ココシキンの力を借りて挿入したもの」

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 世界史(西洋中心)
感想投稿日 : 2022年5月25日
読了日 : 2022年5月25日
本棚登録日 : 2022年5月17日

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