我々はなぜ戦争をしたのか (平凡社ライブラリー)

著者 :
  • 平凡社 (2010年7月10日発売)
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感想 : 8
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戦争が終わった後の、指導者の感想戦。フィクションではともかく実際にはめったにないものが、あのベトナム戦争である。うちふるえるほど素晴らしい。

全く無いわけではないだろう。秀吉と家康は小牧・長久手の戦いの感想戦をやっただろうし、榎本武揚と薩長高官だって話はしただろうし、第二次世界大戦だってあったと思う。
しかしこれが、きちんと読める形であるのはすごい。

中身も実に面白い。一気読みした。
一気読みするのがもったいないのでゆっくり読もうと思ったがそれでも一気読みしてしまった。
戦争目的に関する双方の無理解、相手の意図の読み違い、交渉の設定の難しさなど、教訓だらけである。
また、90年台だからこそベトナムと米国がこういう形で対話できただろう。80年台でも今世紀に入ってからでも無理だと思う。
また、双方ともに真摯に対話しているのだがそれでもなお、外交と歴史の駆け引きがあるのも、それもまた興味深いと思う。

この対話およびこの本を低く見るつもりは全く無いが、それでもなお読み終わって疑問に思ったところを書いておこうと思う。
それは、「何が話されなかったか」ということだ。

マクナマラということもあるだろうし、冷戦終了後とか、ベトナムのドイモイ以後の政策というのもあるのだが、それにしても、イデオロギー的に脱色された国際政治論になりすぎているように思う。
もちろん、それをここで議論しても仕方がなかったと思う。しかしそれは、あらかじめ取り除かれたのだろうか。それとも、米越ともに重要だと思わなかったのだろうか。

これを思うのは、その論争が聞きたかったからではなくて、「この戦争の教訓を未来に活かす」と考えた時に、それを抜きで考えれるのだろうか、と疑問だからだ。
イデオロギーというのは、なにも共産主義vs自由主義だけではない。
たとえば、南北ベトナムといとこの関係にあるといえる朝鮮半島で、もしこの教訓が活かせるのならば、イデオロギー、そして双方の体制に対する思想的な嫌悪感や恐怖心を抜きにして語れるのかと思うからだ。

これは、もっと言うと「恐怖」に関する話である。
この対話は、お互いが当時抱いていたであろう「恐怖」に対する言及が少ないと思う。北爆に対するマクナマラと、北ベトナム高官の感覚の違いは、この「恐怖」だと思う。
また、この対話では触れられていないが、北ベトナムが南ベトナムで散々行ったテロルに対して、北ベトナムの当事者たちはどう思っているのか、それも聴いてみたかった。

なぜなら、それが今世紀に関しての核心だと思うからだ。
結局のところ、北爆・・・交渉テーブルにのせるために相手を空襲することは、効果的なのだろうか。そうではないのだろうか。テロはどうなのだろうか。
それは知ってみたくはある。また知るべきではないのか。
「思っていたほどの効果はなかった。交渉にテロルを活用することは逆効果であった」という言葉が効いてみたいものだけれども、それは事実と願望をごっちゃにしている。「効果的だった」ならば、それはそれとして史実として記録するべきだと思う。

おそらく、こんな「感想戦」は、歴史上空前だ。そして、残念ながら、絶後だろう。
だから、それを知りたかった。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2016年4月27日
読了日 : 2016年4月25日
本棚登録日 : 2016年4月27日

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