夜の鼓動にふれる: 戦争論講義

著者 :
  • 東京大学出版会 (1995年4月1日発売)
3.79
  • (4)
  • (4)
  • (5)
  • (1)
  • (0)
本棚登録 : 54
感想 : 6
4

ここでは、著者の言う、<世界戦争>が終わったあとの私たちが生きている今の世界を中心に少し考えてみたいと思う。<世界戦争>のあとの世界、すなわち、世界が終焉した(=アポカリプス; the end of the world=<世界戦争>)あとの世界とは、要するに「人間であることの否定」からスタートするように思えた。それがたとえば、戦争において戦場のほうでは「敵」とみなされる人間はまるで「虫けら」であるかのように殺されてゆき、「非-人間的」に扱われ、湾岸戦争に代表されるようにテレビ画面というフィルターを通して放映され、あたかも「敵」にいない戦争であるかのようにみせかけた。一方、戦争を生き残ったものたちのほうに目を向ければ、アウシュヴィッツの生存者のように「非-人間的」行為をなしえたもののみが生き残り、生存者はそれがために「人間」として認められることのない眼で見られるのだ。「人間であることの否定」はこれにとどまらない。「死」について考えたときも、著者の言うような「苦しみと死を遠ざける」延命治療が今の世界で施されるようになり、それによってわれわれは「死を見失った」。さらに「死」は最終目標としての終わりであるかのように見えながらも(ハイデガー)、永遠に自分はそれに届くことはない(レヴィナス)のだ。そして、日々大量の情報に流されてゆく現在の状況は人々の思考を停止させ、まさに「あらゆる人が絶対的な受動性のなかに投げ込まれる状況」であり、「イリア」であり、また「夜」である。そこでは人格が剥奪され、みんな同じような思考・行動パターンに陥っているのだ。
 ところで、著者はわれわれはいま「成長」の終焉にたっていると言ったが、この「成長」をexpand、すなわち自己範囲の拡大(=征服)、「否定」(=自己化)することと捉えれば、expandの終焉の先にはもはや「不安」は存在しないはずだ。なぜなら、「否定」と「征服」によって対象が「闇」から「光」へと導かれたからである。「不安」の消滅はすなわち恍惚をもたらすものの消滅であり、「不安」を戦争の中に投げ込むことももはや不可能であるはずだ。だが、今日の世界はそれでも戦争は続くし、変容している。ならば、果たして「成長」あるいはexpandは終焉したのだといえるだろうか。
 さて、今回の課題図書が1995年に出版されたようだが、ここから少し95年以降の世界について考えてみたいと思う。社会はクローン羊の誕生に継いで、人間の遺伝子解読であるヒトゲノム計画も達成された。一方で戦争も変容し、アメリカをはじめとする大国がいま声高にしている「テロに対する戦い」が新しい戦争の形態として生じた。ところが、この「テロ」は事態をきわめて複雑化させている。つまり、これまでの戦争の対象であった国家や民族といった集団は一応ではあるが、「眼に見える」存在であった。ところが、「テロ」という語の蔓延によって、戦うべき対象が曖昧化され、もしかしたら今朝電車で横に立っていた人がテロリストかもしれない(!)などといった「妄想」ともいうべき状況が広がる。その最大公約数が飛行場における安全点検であるように思える。安全点検において、あたかも人を「テロリスト」であることを前提として検査が行われるからだ。考えてみれば、これはスクリーンで見る戦争以上に見えない存在との戦いになっているように思われる。さらには、アブグレイブでの事件のように、「敵」とみなされた人間が「動物」あるいは「虫けら」として扱われることが横行している。
 われわれの現実の生活に立って考えてみる。人間とは本来Mitseinであるべきものだったが、隣人との疎遠などをもたらす都市化が進むことで、Mit-である部分が疎くなった。ところが、Mitseinである以上、人はその失われたMit-の対象を求めるようになる。それが違う形で―たとえばインターネットというサイバー空間上にコミュニティーができたり(いうなれば最近流行っているmixiなどのソーシャルネットワーキング)、あるいはスクリーン上の文字でしか表現されないチャット等を通して人間関係を深めたり―現れる。一方で、Mit-の対象を求めることに失敗したものは孤立し、それがさらに都市化(=人との関係が疎遠になる)するなかで拍車かけられ、孤独へ導かれる。
 生命としての人間の否定、戦争での人間の否定、さらには生活内での人間の否定、このように現代では三重にも「人間であることが否定」され、<世界>のなかに存在する存在(世界内存在)としての人間の<世界>が崩壊し、やがて人間そのものの崩壊へとつながっていくのだ。
ところで、人間<世界>の崩壊はまた<未知>でもある。著者は<未知>に恐れることはないといったのだが、ここがいささか引っかかる。自己の崩壊がしていくなかで、どうやって人間はその崩壊の原因となる<未知>に恐れを抱かずにいられるだろうか。また、<未知>の世界を<否定>できないのだとすれば、<未知>であるものを知る(=自己化して「征服」する)ことも難しい。<未知>であるものがいったん発生してからようやくその意味を知る。ならば、ミネルヴァの梟が飛ぶのは遅すぎないだろうか。
いま、現実を突きつけられた気がする。これをどうやって超越していくか、それが現代に生きるわれわれの課題でもある。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 国際関係
感想投稿日 : 2007年6月13日
読了日 : 2019年2月11日
本棚登録日 : 2007年6月13日

みんなの感想をみる

コメント 0件

ツイートする