父という余分なもの: サルに探る文明の起源 (新潮文庫)

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  • 新潮社 (2015年1月28日発売)
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p237
人類はすごくバラエティに富んでいる。肌の色も髪の毛の色も背の高さもずいぶん違う。人間の体色そのものが文化。
今の人種や民族を別の人類と考えれば共存していると言えるかもしれません、しかし人類は1種。

p249
最初の人類は手や指が湾曲している。これは地上歩行するよりも木にぶら下がりやすい特徴を持っている。

p253
抑制と同調の基本は人類の食事パターンにある。人類の食事というのは自分の食欲を抑えることから始まっている。食物を採集する時その場で食べてしまったらその食物は仲間の下へ持って帰れない。仲間に分配する時でも自分の欲望をあらわに出してしまったら秩序が保たれない。さらに分配した食物をみんなで食べる時でも自分が抑制しなければ共食と言う場を持てない。
今のは抑制ですが、もう一つ、同調がなければならない。これは相手の欲望を自分の行為に取り入れること。この抑制と同調の2つによって初めて共食が成り立つ。この共食こそ類人猿の食事から人間の食事へ移行した第一歩。

p254
類人猿は人類のように同じ行為を一緒に行うことができない。群れるという事と同時に何かをするという事は違う。類人猿はしないが、人間は発生のかなり早い時期から一緒に同じ行為をすることを学習している。個人が社会の中に埋没していることが人間社会の特徴である。

p258
類人猿は埋葬ができません。相手の立場に立ってものを考えることもおそらくできないと思います。なぜ人類の食事を問題にしたかというと、他人の欲望を自分のものにして考えないと人類的な分配と言うのは成り立たないから。
他人と自分の障壁を故意ににとってしまう、それによって精神的なトリップとして一種の快楽の領域が入ってくる。そういうものを経験して初めて非常に特異な社会行動が生まれてきたのではないか。人類のセックスが他の類人猿と異なるのもその点で、相手の立場に立つと言うのは別に異性同士でなくても良くて、同性同士でも相手の気持ちを自分の中に取り込むことで一体化してしまう、それが人類のセックス。アメリカに行った人が数年経って戻ってくるとすごくアメリカ的な身振りや雰囲気を身に付けている、これは人間の能力を端的に表現している人間でしかありえない。
人間でしかありえないこの能力を近代は否定してきた。そういう状況で個性を大事にしろと言う。
何か違うものになる能力を高く評価するけど、同時に他の人とは違うと言うことを評価する。考えてみると2つはすごく矛盾している。

p262
食物を確保するためと繁殖をするために動物は群がっていると言っても過言ではない。単独生活しているものも、繁殖するためには群がる。

p266
霊長類ではゴリラにしか社会学的父性が無い。父親というかオスの方が群にとって遊びの要素、変容できる役割を持っていて、文化になりやすい。父親と言うのは父親である必然性がなく、それを維持するためには(メスと子の二重の承認が必要だし)文化的な集団的な認知が必要。
チンパンジーとゴリラはメスが集団を渡り歩くのは共通項目で、その上で、ゴリラは他のオスを排除して息子だけ自分の集団に残し、チンパンジーはオス同士が固まってその中で勢力争いして1番2番を決める。

p268
ゴリラとチンパンジーが共存しているが、全く違う社会を作っているのはなぜか?食物はそう変わらないので性の行動様式が大きな要素になっていると思われる。

p269
ニホンザルはメスでなくオスが移動する。メスは自分の群れの中に長く滞在しているオスより、外から来た新しい男子に性的な興味を示す。ゴリラのメスも一緒に生まれ育った兄弟には性的な興味を示さず、外からのオスに惹かれる。

p272
人間の場合にも旅と言うのは性的な要素を抜きに考えられない。子供を持つと類人猿すべてのメスは動かなくなり移動を中断させる。

p274
チンパンジーのメスは発情すると尻が腫れるのが分かるが、ゴリラや人間は発情期が見えない。ただ人間はゴリラよりオランウータンに近い。オランウータンは出会った時にメスの生理状態にかかわらず交尾をする。技巧よって発情すると思われる。目配せや声も技巧。
 
p275
昔は集団の構成員には自我がなかった。王だけが集団のトップとして自我を、主体的な意思を持っていた。それが徐々に下部の構成員も持つようになってきたのがルネサンスであり近代。
つまり最初に共同体のレベルで自我が発生した。経済交流と同じ。昔は家族のみんなが金のやりとりをしていたわけではなく、家族の長が対外的にしていた。家の中でさえお金がやり取りされるようになったと言う事は自我が諸個人にまで降りてきたと言う事。
……
との考えに立てば1番最初に国家がなくてはだめだが、人類学者の調査だとそうではなく、「バンド」といわれる、人が作る25人位の集団の最小単位があるといわれる。狩猟採集民はみんなオールラウンドプレイヤーで他の人の助けを借りなくても個人個人で独立している、その上で共同意識が人類の特性としてある。

p278
人間の場合、自分が疑われることが原因で自殺をする人がいる。小さな集団では自分が認められると言うイメージがきちんと決まっていなければ困る。25人と言うのはそういうまとまりが可能な数字。
(上の自我が下に降りてくると言う話で言えば下の者は部分でしかなくなるが、そういう発想は原始共同体には多分ない。)むしろ相互に交換可能な資質を持っている者たちが集団を支えている。そちらのほうが自我の原型に近い気がする。

p280
愛と言う機能、憑依という機能が逆方向に働いて、個人が進んで全体の部分になろうとする歴史 が繰り返し起こったのかもしれない

p288
遊びはふつう起こる文脈を変えること、つまり少し離れて操作的に仮想の状態に持っていって何かをやることに心理的な喜びを持つこと。チンパンジーもゴリラもユーモアを持っている。

p291
優劣ではなくニュートラルな状態が必要となったときにそれを明示する音が言語の起源。言語的な音声が決まるのは経済的な価値が生まれる段階になってから。交換財としての価値があると認知されるとそれに付与される名称が決まる。
野生状態で、化粧や装身具をつける類人猿はいない。

p295
遊びは優劣を反映しない行動。双方が積極的に関与して遊びを盛り上げなければならない。普段の自分の姿を変えて文脈をずらすことで遊びの喜びが出てくる。

p300
自然界には同じことが連なって存在していない。ところが、人間は環境を変えてしまった。同じことをするということが有利であったり、正しかったりする状況。

p314
直立ニ足歩行は広い範囲を歩いて食物を集めるために発達した初期の特徴。直立ニ足歩行が完成して骨盤がお椀状になったため、産道の大きさが制約を受け大きな脳の子供を産めなくなった。そこで生後に脳の成長を加速させエネルギーを脳の成長に回したため、体の成長が遅れることになった。頭でっかちの発育の遅い子供をたくさん抱えては母親だけでは育てられず共同育児をすることが生き延びるために不可欠となった。
人間の赤ん坊は生後すぐにけたたましい声で鳴く。それはお母さんがすぐに自分の腕から赤ちゃんを話すから。類人猿の赤ん坊は泣かない。泣く事は肉食動物の中引くので危険である。赤ん坊を泣かせるには安全に守る体制ができていなくてはならなかっただろう。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
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感想投稿日 : 2022年1月21日
読了日 : 2022年1月18日
本棚登録日 : 2021年1月29日

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