黒人=オタクといった暴論(結局、オタクは黒人ほどは虐げられていない)、表現の幼児退行のような仮説をゲストを招いて紐解いていくことを試みるものの、時間が足りずそこまでたどりつかない。しかし、それでも十分に、むしろ前作よりも面白い。
特に興味深かったのは村上隆がゲストの回。マークジェイコブス、ファレル、カニエとのコラボレーションの中で彼らがどのように働き、何を求めているのか等、当事者しか知り得ない話が語られ、その中で村上自身は自らの役割を便利屋と定義するというあたりは示唆に富んでいる。
「ぼく一番ルイ・ヴィトンで学んだのはカルチェもそうですけど、ヒストリー学んで一番の肝、つまり最初の起源は何かというと、ラグジュアリーとかじゃなくて、便利屋さんなんですね。要するにお金持ち出入りの便利屋さんがああいうブランドを作ったというところにあるならば、俺も便利屋でやるしかないと(笑)」
また、斎藤環回も良かった。精神分析の観点から視覚表現と聴覚表現の違いにアプローチ。統合失調症では幻視はまず起こらず、徹夜明けとか酩酊状態とか何かを幻視したとしても大して怖くないが、幻聴はリアル。「全ての芸術は音楽の状態に憧れる」とも言われるように、あらゆる表現形式の中で最も純粋、最も意味に還元できず、表現しようとしている何かそのものになってしまっているという意味で、イデア論でいえばイデアに近いとされる。その意味において音楽は表現をレイヤーに分離しにくい形で統合が起きてしまっており、これが音楽が独自に孕んでしまう統合指向だが、それゆえに常に成熟を強いられる。そしてそれが故にある種退行を常に強いられてしまった表現者によるアウトサイダーアートでは絵画はありえても、それが音楽となると通常我々には受け入れがたく、ダニエルジョンストンのようにキャラ込みで受容されるしかないと。このあたり論考も興味深かった。
- 感想投稿日 : 2021年7月17日
- 読了日 : 2021年7月17日
- 本棚登録日 : 2021年7月6日
みんなの感想をみる