「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義

  • 文響社 (2018年10月5日発売)
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2023.1.11
★死とはなにかという普遍的な問いに向き合った哲学らしい哲学。ただし哲学は人間の悟性を根拠として、思考実験などを使って前提を積み上げていくものであり、そもそも人の認知や知識の限界と個人間のぶれがあるなかでは個人の思い込みの寄せ集めにしかならない。

死は一巻の終わりであり、魂は存在せず、死ぬと存在がなくなる物理主義を前提とする
死はなぜ悪いのか。A別離があるため本人ではなく周りのものにとって悪い(ただしこれだけならば一生会えない別れと死は同等の扱いでなければならない)、B死ぬプロセスが苦痛であるから、C死が恐れを生むから、D非存在自体が悪であるから、E死が生を楽しむ機会を剥奪するからの5つが考えられる。著者はAは事実だが中心的ではないとする、Bは可能性が低く恐れるのが合理的とはいえない、Cは死が悪であると言えて初めて恐れられるので中心的とは言えない、Dは存在するかもしれなかった生命は無数に考えられそれに対する同情ができない以上は誤っているとして、Eの剥奪説を採用している。★個人の死、そして社会の消滅は生きていることの価値や意味を否定しうるから人は恐れるのだと思う。そもそも善と悪というのは人間が作った価値判断で死はそれすら意味を失わせるのであり、死に対する価値判断をしようとする試みからして不適当。
不死は善か。不死は生き地獄と紙一重であり、不死ならば何をするかという思考実験の結果は永遠の退屈である。天国は永遠の生であると多くの宗教が語るがその詳細は描けていない。不死は福音ではなく災厄である。ただし、人生を十分に楽しめるだけの長さが人間に与えられていない、つまり早くに死にすぎるという問題がある★不老社会が来たときには死の恐れがなくなるのかというとむしろ強くなると思う。本質的に人類文明や地球、宇宙自体が滅ぶ運命であり個人の不老は諸行無常の真理を克服できるものでないから。
人生を生きる価値はなにか。快楽と苦痛をベースとしつつも、マトリックスのような快楽装置を想定したときにそれは実績がないため個人的には利用したくないためそれ以上の何かがあるのだと著者は言う。価値についての結論は留保しつつ、少なくとも価値が高いか低いかは判断できることを主張。体験自体とは別に生きることそれ自体に価値があるのかも検討しており、ニュートラルな器説、価値ある器説(控えめな器)、価値ある器説(夢のような器)の3つの中から著者は生きているよりも死んでいる方がましであることがありうる前者2つの立場をとる。
自殺については生きているよりも死んでいる方がましであることがありうるという立場から、場合によっては合理的でありうるという立場をとる
道徳哲学の考え方には①功利主義、②義務主義、③同意条件を考慮した義務主義がある。①は最大多数の最大幸福こそが道徳的であるとする立場、②は罪なき個人に害を及ぼすのは絶対に許されないとする立場、③は判断力がある個人による理由のある同意がある場合を除いて罪なき個人に害を及ぼすのは許されないという立場。一人の健康な人がいてその人を殺して臓器移植することで5人の患者が救うことが①だと許されてしまい、不道徳であると言うためには②③である必要がある。戦場で他の5人を守るために自らを犠牲にする行為が道徳的であるためには③が必要。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
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感想投稿日 : 2023年1月11日
読了日 : 2023年1月11日
本棚登録日 : 2023年1月11日

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