1981年に『UP』に書かれた同名エッセイの改稿版。
「歴史家は、それぞれ主観的に彼の個性によって事象の個性や意味を理解するほかない」(p67)
「歴史家は、それぞれの経験と史料にもとづいて、生起した行為や出来事の内面を追体験し、その歴史的個性や意味を説明する。歴史の核心は、それを生起せしめた人々の内面的過程であり、歴史家は、その個性や意味を探究する」(p289)
全体を通して、なんとも率直な、それでいて揺るがない信念を感じさせる一書。しかし、史料を読んで追体験して、その意味や個性を探究し、そしてその探究は歴史家の主観にゆだねられるとするならば、「歴史家」っていったい何なんだろう、という疑問がわいてくる。この理屈でいえば、誰でも「歴史家」になれるんじゃないか。だとしたら、「歴史家」とカテゴリーを用いることに意味がなくなってしまわないだろうか…。
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「私のある部分が酔っ払っている、というのは一理あるかもしれない。酒の勢いで書いた文章は、さめて読めばだいたい使いものにならない。歴史は、シラフで書くべきものだ。しかし、史料に対する耽溺とか追体験とかが歴史家にとって不可欠であるとすれば、一種の陶酔が文章にあらわれても不思議はなかろう。私を酔わせているのは、もしかしたら酒ではなくて歴史である」(p307)
この文章はかっこいい。
読書状況:読み終わった
公開設定:公開
カテゴリ:
歴史
- 感想投稿日 : 2012年5月10日
- 読了日 : 2012年4月16日
- 本棚登録日 : 2012年5月10日
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