街場の憂国論 (犀の教室)

著者 :
  • 晶文社 (2013年10月5日発売)
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本書で著者が何度も言及している、政治の責務は「国民全員を食わせること」であるという国民経済という考え方はシンプルでわかりやすい。これは今の政治に置き去りにされている考え方だ。

(以下引用)
議会制民主主義というのは、さまざまな政党政治勢力がそれぞれ異なる主義主張を訴え合い、それをすりあわせて「落としどころ」に収めるという調整システムのことである。「落としどころ」というのは、言い換えると、全員が同じように不満であるソリューション(結論)のことである。誰も満足しない解を得るためにながながと議論する政体、それが民主制である、(P.48)

行政官に対しては「税金を無駄使いしている」という批判はありうるが、「稼ぎが悪い」という批判はありえない。(中略)管理部門は価値あるものを創りだすプロセスを支援するのが仕事であって、自分たちではなにも価値あるものを創りださない。行政とはそのような管理部門である。そして、そういうものでよろしいいのである。(P.73)

ひとわたり欲しいものは手に入ったら、購買力が落ち、経済成長は鈍化する。欲望が身体を基準にしている限り、欲しい物には限界があるからである。1日に三食以上食べるのはむずかしい(してもいいが体を壊す)。洋服だって一着しか着られない。(中略)かように身体が欲望の基本であるときには、「身体という限界」がある。ある程度以上の商品を「享受する」ことを身体が許してくれない。そのとき経済成長が鈍化する。(P.111)

今の日本における若年層の雇用環境の悪化は「多くの人に就業機会を与えるために、生産性は低いが人手を多く要する産業分野が国民経済的には存在しなければならない」という常識が統治者からも、経営者からも失われたからではないのか。(P.122)

外交についての経験則のひとつは「ステークホルダーの数が多ければ多いほど、問題解決も破局もいずれも実現する確立が減る」ということである。(P.165)

ロビンソン・クルーソー的単独者は、無人島でそれほど厳密な手続きで、それほど精密な実験を行っても、科学的心理に到達することはできない。それは彼が実験によって到達した命題が科学的に間違っているからではない。命題の当否を吟味するための「集合的な知」の場が存在しないからである。科学者たちが集まって、ある命題の真偽について議論するための「公共的な場」が存在しないからである。「反証不能」とはそのことである。命題そのものがどれほど正しくても、他の専門家達による「反証機会」が奪われている限り、それは「科学的」とは言われない。(P.238)

「オレがここで死んでも困るのはオレだけだ」と思う人間と、「彼らのためにも、オレはこんなとこで死ぬわけにはいかない」と思う人間では、ぎりぎり局面での踏ん張り方がまるで違う。それは社会的能力の開発においても変わりません。自分のために、自分ひとりの立身出世や快楽のために生きている人間は自分の社会的能力の開発をすぐに止めてしまう。「まぁ、こんなもんでいいよ」と思ったら、そこで止まる。でも他の人生を背負っている人間はそうもゆくまい。(P.331)

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: ◇本:エッセイ・評論
感想投稿日 : 2013年11月5日
読了日 : 2013年11月4日
本棚登録日 : 2013年11月5日

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