判断力批判 下 (岩波文庫 青 625-8)

  • 岩波書店 (1964年11月16日発売)
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4

人間の究極目的は「人間」であるという一文にドキッとした。
でも、それは主観的にということで納得した。

人が自分が生きている価値を感じるためには「自分」を目的としなければならない。
人は自然法則と違う選択ができる自由を持っている。
自由は使い方によっては、自然を壊す。それは自分の生存を危うくする。
それを避けるために道徳という制約を必要である。

この本で私が捉えた最も大事なことはこれだけ。

読書メモ

2-1 目的論的判断力の分析論
65
因果的結合の種類
実在的原因(作用原因)によるもの(機械的連関)→悟性に従う
結果Aが原因Bによるものである時、AがBの原因になることがないー下降的系列
観念的原因(究極原因)によるもの(目的論的連関)→理性概念に従う
AがBの原因になることがありうるー相互的な依存関係


p36
「有機的存在者は、それ自身のうちに形成する力を具えている、そしてこの力を、元来かかる力をもっていない物質に伝える(これを有機的に組織する)」

66
p39
「自然の有機的所産とは、そのなかにおいては一切のものが目的であると同時にまた相互的に手段となるところのものである」

動植物学者らが研究する上で、格律「被創造物には何ひとつ無駄なものはない」と一般的自然学の原則「何物も偶然的に生起するものでない」が必要となることからもそこに有機的存在者の内的合目的性を判定するアプリオリな原理があると考えられる。

67
人間のために有益であるという目的(外的合目的性)が秩序立って見えてしまうことを自然の究極目的って言ってる???

68
p52
「自然における合目的性という語は、反省的判断力の原理を意味するだけであって、規定的判断力の原理を言っているのではない」
p54
「原因と結果との結合は、我々自身の側における概念の結合であって、物の性質に関するものではないからである。」

2-2
69
規定的判断力 すでに条件がある
反省的判断力 条件を考える→矛盾が生じる(アンチノミー)

70
正命題>
物質的な物の産出はすべて単なる機械的法則に従ってのみ可能である
反対命題>
物質的な物の産出の中には機械的法則に従うのでは不可能なものがある

理性の立法においては矛盾。だが、理性はどちらの命題も証明できない。

反省的判断力においては矛盾しない?
正命題>
自然の所産としての一切の可能な形式を「常に自然の機械的組織に従って反省し、またできる限り機械的組織を探究せねばならない、というだけ」
反対命題>
「或る種の自然形式について…自然の機械的説明とはまったく異なる原理、即ち究極原因の原理を探究し、この原理に従ってかかる自然形式に反省を加えることを妨げるものではない」
p40
「判断力は…(主観的原理に基づく)反省的判断力として、…或る種の形式に対しては、自然の機械的組織の原理とは異なる原理を、かかる形式を可能ならしめる根拠として想定せざるを得ない、ということだけである。」
→反省的判断力は主観的なもので完璧ではない分、まだ機械的組織に組み込めないものも考える余地がある。だから、2つの命題が矛盾しないってこと?

72
「原因の性質を観察によって知るに必要な手引を求めるためだけにも、…有機的存在者のその可能とは究極原因の概念に従って判断されねばならない、という原則の正しいことは、いまだかつて何びとによっても疑われたことがなかった。してみると問題はこういうことだけになる、…この原則は主観的にのみ妥当するのか…我々の判断力の格律にすぎないのか、それとも客観的原理なのか…機械的原因…は単なる中間的原因としてのみこの究極原因に従属するのか」
p64
「技巧」=自然のとる原因性
「意図をもつ技巧」
究極原因に従う、特殊な種類の原因性
「意図をもたない技巧」
自然の機械的組織のこと
「この原因性と、…かかる概念に従う規則との偶然的合致は、自然を判定するための単なる主観的条件と解せらるべきであるのに、それが誤って自然による特殊な種類の産出と解せられるに到った」

73
以下の、どの体系も完璧ではないよね。と言っている。
p65
自然の技巧に関する体系
観念論
(自然の合目的性は)すべて意図をもたない
偶然性の観念論
生命のない物質
エピクロス、デモクリトス
 この世界はすべて偶然。
「言葉通りに解せられる限り明らかに不合理…問題にする必要はない」
宿命性の観念論
生命のない神
スピノザ
 この世界は神のいたずら。
超自然的根拠を想定
p71「合目的性の理念を生じせしめるものではない」
実在論
意図をもつものもある
自然的実在論(物活論)
生命のある物質
物質の生命を想定
p71「生命を有する物質(この概念は矛盾を含んでいる、生命のないということが、物質の本質的性格だからである)」
超自然的実在論(有神論)
生命のある神
p73「我々の認識能力の性質と制限とにかんがみて…一定の目的関係を物質に求めてはならない」

74
概念の処理
独断的 規定すること、客観
批判的 反省(考察)すること、主観
自然目的としての物の概念
人間には客観的実在性を確認できない
理性には規定できない

75
人間は「そこに意図がある」という視点からしか世界を理解できない
p80「自然における目的は、対象によって我々に与えられたものではない」

76
p86「絶対必然的存在者の概念は、欠くことのできない理性理念ではあるが、しかし人間の悟性にとってはついに達せられ得ない蓋然的概念なのである」
p87「対象の認識が悟性の能力を超過する場合には…我々に必然的に付せられている主観的条件に従って考える、という格律に常に妥当することになる」

77
人間が捉えられる範囲に限界があるため、特殊から普遍の結合しか捉えられない。だが、人間には普遍から特殊の結合を求める。それは人間は対象を見る時、そこに原因があると考える性質(悟性)があるからだ。
人間が世界の根本原因(神など)を捉えられなくてもどうしても想定するのはそういう性だからだ。
p98「合目的な自然的所産を機械的に説明する原理は、確かに目的論的原理と両立し得るがしかし決して後者を無用にするものではない」

78
機械的原理と目的論的原理に共通な原理を自然の根底に置かねばならないが、これは超感性的なものなので、人間はこれに肯定的な概念・理論をもつことが難しい。
機械的原理を追求することは目的論的原理の暴走を防ぐために必要。
目的論的原理を想定することは機械的原理の追求を促進するために必要。
p107「自然の機械的組織が、自然におけるそれぞれの究極意図を実現するための手段としてどれだけのことを為すかはまったく不定であり、また我々の理性にとっては永久に決定せられ得ない事柄である。しかし我々は、自然一般を可能ならしめる原理、即ち前述した可想的原理〔超感性的なもの〕にかんがみて、自然はいかなる場合にも、普遍的に合致する二通りの法則(自然法則と究極原因の法則)に従って可能であると想定して差支えない、とは言えこのことがどのような仕方で行われるかは、我々にはまったく洞察できないのである。更にまた我々は、我々に可能な機械的説明方法がどこまで達するかを知らない、ただ我々にとって確実なのは、たとえ我々が機械的説明方法を頼りにどこまで進んでみたところで、この説明方法では我々がいったん自然目的として承認したところの物を説明するにはけっきょく不十分であるに違
いない、それだから我々は、我々の悟性の性質に従って、これらの〔機械的〕根拠を挙げて目的論的原理に従属させねばならない、ということだけである。」

81
有機物以外のものには内的合目的性はなく、外的合目的性しかない。そのため、「それがなぜ存在するのか」問うことはできない。

82
地球上の有機物は人間のために存在する→人間を最終目的に置く考え方(目的論的)
地球上の有機物の均衡を保つために人間が存在する→人間を手段とする考え方(機械的)
地学的見地からすると人間も手段としか見なされる
だが、目的論的原理は反省的判断の原理(主観的に考察するもの)であることはアンチノミーで確認した。そのため、人間は自分を最終目的に置いて自然の法則性を見出すことも許される。

83
自然の最終目的を人間とした場合に、人間の最終目的は何になるか。
自然によって充足されること→幸福
自然は人間の思い通りにはならないから、満たされることはない
p133「人間は、けっきょく自然目的の系列における一項にすぎない」
人間が自然を上手に使用すること→心的開発
p135「自分自身に対してみずから目的を設定し、…彼の自由な目的一般を規定する格律に従い、自然を手段として使用する適性という条件である」

心的開発には意志によって欲求から解放されることが必要
その手段として
外的抑圧→他の人との衝突を避けるための公民的社会という合法的強制力
戦争もその一部だよね…
p138「戦争は最も恐るべき苦難を人類にもたらすものであり、また戦争に対する不断の準備は平時において恐らくいっそう甚しい苦難を人類に課する、しかしそれにも拘らず(国民の幸福とするところの平安な状態を欲する希望からはますます遠ざかるにせよ)、心的開発に資する一切の才能を最高度に発達せしめる動機を成すのである。」
内的不満→文化による享楽からの克服
p139「芸術と諸学とは 、すべての人が普遍的に与かり得る快により、また社会に洗練と醇化とを与えることによって、たとえ人間を道徳的に改善するまでには到らないにせよ、しかし少くとも人間を教養あるものにするのである」

⭐︎ 84 世界の存在即ち創造そのものの究極目的について
最も大事な項目だと思った。
⭐︎ p140「究極目的とは、自分自身を可能ならしめる条件として、自分以外の目的を必要としないような目的のことである」
物の目的による結合を実在的なものと「見なし」、これらの物がなんのために形式を持ち、他の物との相互関係の中に置かれるのかの客観的根拠を悟性に求めるとしたら、それを求める物自身が存在するためという目的にたどり着かざるを得ない。
この目的は自然的条件に全く関らない無条件的なものであり、これが「自由」である。
自然に自由を行使できる存在=究極目的に値するために、人間は道徳的でなければならない。

85 自然神学について
これは誤解された自然的目的論である。
自然の目的論は、人間の認識能力の性質のため、自然の合目的性は自然にある種の悟性があることを想定する。しかし、それが究極目的を持っていたかを理論的に説明できない。

87
世界に理性を持たない物しかいないとしたら、世界の目的や価値を考える存在もいないから、その世界には価値がない。
だから、世界の目的となる物は自然から自由となる条件である理性を持ち、その自由で自らと自らを生かす自然を壊さない条件である道徳性法則に服従する存在=人間である。

どんなに道徳法則を尊ぶ人であっても現実とのギャップに挫けずにはいられないから、神の想定は必要である。

91
p201
事実
概念の対象となるもの
客観的実在性が経験や純粋理性(理論的、実践的)によって証明されるもの
理念の中で例外的に事実に属するもの
「自由」のみ
純粋理性の実践的法則と経験の両方から証明される
p202
信に属する物
純粋実践理性を義務に従って使用するためにアプリオリに必要なもの
「神の存在」と「心の不死」
これは理論的には決して説明できないため、事実にはなり得ない

第一序論
2
自然の合法則性→自然の機械的原理

5
反省的判断力は自然の法則を我々の判断力に適合するように節約し、斉一性を固守する。
自然の技巧の原理を我々が見出すのはこのため。

6
p267「合目的性は、元来偶然的なものの合法則性にほかならない」
自然の集合 機械的
自然の体系 技巧的
反省的判断力のみが区別

7
自然の技巧と機械の対立
目的の有無
有り 技巧 原因性
無し 機械 多様なものの単なる結合
てこや斜面を目的のために使用されるが、目的自体になることはない
p271「我々が究極目的を物のなかに持ち込むのであって、物の知覚から究極目的を取り出してくるのではない」

9
【余談】
カント

フッサール

ブーバー
反省的判断力(美感(美学)的判断力)
規定的判断力
it(ただ存在する物)
感性
悟性
目的論的判断力
you(主体性のある物)
理性

判断力
自然の形式は分かる。
主観的合目的性、悟性と判断力の調和
目的は作り出すものなので、自力では分からない。
目的論的合目的性、悟性を理性と関わらせる

自然の中で結果が原因よりも先にある状態
目的がある
理念がある と表現される

自然の有機的所産の観察には、まずそこに目的を見出さないと、その物の性質や原因を経験として研究することはできない

???
ここの、悟性(形式)では原因→結果という流れだったのが、理性(目的)では結果→原因の特定という逆の流れになるのが分からん。
ここが理解できないの致命傷だと思う。

眼球の水晶体の例
水晶体が網膜上に像を結べる(目的)のは、光線を2回屈折させるから(原因)だ。
そう理解すると、人間は水晶体の仕組みを理解しやすい。
だからといって、自然がそういう目的を持って水晶体を作ったかは人間には分からない。

p296「自然目的の概念は、反省的判断力が経験における対象の因果的結合の攻究を旨として、自分自身のために設けた概念にほかならない」

10
p303「我々はまた石をもってきて、その上で何か或る物を砕いたり、或はその上に何かを構築したりすることができる、そしてこのような結果はまた目的としてのその原因に関係せしめられ得るのである。しかし私は、それだからといってこの石はもともと建築に用いらるべきであった、と言うことはできない。眼は物を見る用をなすべきであるという判断は、眼についてだけ言い得ることである。眼の形状、そのすべての部分の性質や組織は、単なる機械的自然法則に従って判断する限り私の判断力にとってはまったく偶然的であるにも拘らず、私は眼の形式や構造において、この器官が或る仕方で形成されていなければならないという必然性を、或る種の概念〔目的の概念〕に従って考えるのである、そしてかかる概念を欠くと、私は単なる機械的自
然法則によるだけではこの種の自然的所産の可能を理解することができないのである(このようなことは、いま述べた石についてはあり得ない)。かかる『べし』は、自然的機械的必然性とは異なる必然性を含んでいる。 」

11
心的能力/上級認識能力/アプリオリな原理/所産
認識能力/悟性/合法則性(客観的必然性)/自然(理論的判断)
快・不快の感情/判断力/合目的性(主観的必然性)/技術(美学的判断)
欲求能力/理性/同時に法則であるような合目的性(責務)(主観的に必然であることによって客観的妥当性をもつような必然性)/道徳(実践的判断)(自由)

快・不快の感情、欲求能力の根底にも認識能力はある

悟性/自然と理性/自由はアプリオリな規定的原理をもち、哲学の部門をなす

判断力は両部門を結合するだけで、論理的なものではない

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 雑学
感想投稿日 : 2023年9月17日
読了日 : 2023年9月17日
本棚登録日 : 2023年9月17日

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