書評集だが、自分がほとんど手にすることのない歌集や詩集が多く取り上げられていて、とても新鮮だった。そうかこういうふうに読むのか、と思う所がいくつもあった。短歌や俳句には心ひかれるが、見る目がないので、よくわからないなあと思うことも多い。一度きちんと向き合いたいと思っているのだけど。
穂村弘さんの書かれるものにはしばしば、私たちが生きることの二重性について述べたところがあり、私は何度読んでも、ああそうだなあと深く納得してしまう。私たちは「社会」のなかで「生きのびる」必要がある。同時に、「世界」にふれて「生きる」実感を求めずにはいられない。「詩歌を読むことは『世界』に触れて命を蘇らせる快楽を味わうこと」と述べられていて、確かにそうだと思う。
二重性についてもう一つ。「孤独という状態は宇宙が生まれたときからあるが、寂しいという気持ちは人間が発明したもの。人は気持ちが剥きだしになってスースーしたとき、そこに『寂しい』という語を絆創膏のようにあてて守ってきたんじゃないか」と、鴻巣友季子さんが書いているそうだ。言葉によって、元々の世界にあった何かが私たちのものになる。同時に名付けられることで元々の何かの姿は隠される。「寂しい」という絆創膏を貼ったとたんに「剥きだし」の「孤独という状態」は見えなくなる。言葉の両義性ということをしみじみ思う。
歌集についての評のなかでは、寺山修司について書かれた章が一番心に残った。寺山修司の短歌は、一読で心をとらえる印象的なものが多い。「チェホフ祭」や「身捨つるほどの祖国はありや」なんか忘れがたい響きがある。著者は(鑑賞者としてではなく)創作者の視点で、その作歌の底にあるものをとらえようとしていて、そこがとても興味深かった。
ヒグチユウコ「せかいいちのねこ」の評もいい。「わかるよりも大事なことがあるんじゃないか」「世界の全てを理解することは誰にもできない」「だからこそ、緊張したり、混乱したりしながらも、できるだけ優しく、なるべく勇気を出して生きるしかない。そんな、当たり前だけど普段は忘れていることを、この作品は、理屈ではなく、空気の感触として思い出させてくれる」 本当にそうだと思う。
「まえがきにかえて」として、以前朝日新聞に「読書は必要か」というテーマで書かれたものがのっている。「読書は(ダンスなんかと同じく)必須科目ではなくて選択科目」という考え方に対して、そうかもしれないけど、うーん、なんか違うような気がする、でもうまく言えない…とモヤモヤしていたのが、これを読んで、そうだ!そうだよね!と膝をバシバシ叩いたのを思い出した。今回再び叩いてすっきり。
最後にのっているのが「私の読書道」と題した著者インタビュー。子ども時代から思春期の頃の読書体験について語られているのを読んで、ちょっと驚いてしまった。穂村さんはとても繊細な人なんだろうとは思っていたが、ここまで「世界とうまく折り合えない」人だったとは。大島弓子「綿の国星」との出会いが「決定的」だと言う男性はかなり珍しいと思う。そうではないかと思っていたが、著者はかなりディープな少女マンガ読みのようだ。
だからまあ当然かもしれないが、冒頭の山岸涼子「日出処の天子」評は秀逸。「ここには、愛というものが真っ正面から描かれている」まったくその通りだと思う。
- 感想投稿日 : 2018年3月5日
- 読了日 : 2018年3月5日
- 本棚登録日 : 2018年3月5日
みんなの感想をみる