狂気の山脈にて クトゥルー神話傑作選 (新潮文庫)

  • 新潮社 (2020年11月30日発売)
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感想 : 29
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 H. P. ラヴクラフト(1890-1937)といえば怪奇(ホラー)小説の有名どころで、マニアックなファンも世界中に多く抱え、多くの、今日言うところの「二次創作」の作品群のみなもととなった「クトゥルー神話」の作者であり、私も高校生の頃に創元推理文庫の『ラヴクラフト全集』全7巻のうち1巻から3巻までを買って読んだ。が、その当時どうもこの作家の作風に今ひとつ乗り切れないものを感じ、若干苦手なような、「好き」とまでは言えないような状態であった。
 新潮文庫版のこれは新訳で、昨年12月に出たばかりの文庫オリジナルである。実はこれは新潮文庫版「クトゥルー神話傑作選」の2冊目のようで、既に既刊があるらしい。
 さて、相当歳をとった今読み直してどうかな?と思いながら読み始めてみると、この作家の文章が、どうにも私には入り込みにくいのだと直ちに判明した。センテンス同士のつながり、複文節の構造、論理のプロセスなどが、いちいちしっくりこないのでスラスラと読めない。英米文学の文章はしばしば私にはそのような印象をもたらすので、英語のパロール体系、さらには英米文化のロジックに、馴染めないものを感じてしまうようだ。それでも、今回は時間をかけて味わいながら読み進めた。
 読み進めるうちに更に気づいたのは、これらの小説に、カギ括弧でくくられた人物同士の会話が、ほぼ全くと言っていいくらいに無いことだ。会話が無くて、ひたすら地の文だけで進んで行く。特に、本巻で最も長く、「短めの長編小説」くらいの長さがある「狂気の山脈にて」(1936)でも、後半は南極で発見された遺跡を探索していく際に語り手の傍らには一人の探検隊仲間がずっと付き添っているのに、互いの会話は全く出てこないのだ。少なくとも、カギ括弧でくくられた台詞が全然無いままに、延々と地の文での叙述が続く。こんな書き方は小説では、一般的にはほとんど見られないのではないか。しかも本巻のすべての作品においてもそうなのだから、どうもラヴクラフトは、「ひたすらな叙述へと向かう」作家なのである。
 少なくともテクストの書き手にとって、(人間の)他者には全然興味が無く、彼らとのコミュニケーションが織りなす場の推移にも一切関心がない。そういった夾雑物を排して、物語はひたすらに怪異への欲望に貫かれている。その怪異は、巻末の「狂気の山脈にて」「時間からの影」ではあからさまに、「クトゥルー神話」と後代から呼ばれた神話的な彼方の、気の遠くなるような太古の地球上の歴史である。
 この「怪異」は、しかし、これらの長い2編以外では必ずしもクトゥルー神話に濃厚に結び付いているとも言いきれないもので、それらは最後まで正体のわからない「何か」として立ち現れるに過ぎず、この点、「怪奇小説のプロトタイプ」として非常に魅力的なテクストになっている。
 一番気に入ったのは巻頭のごく短い「ランドルフ・カーターの陳述」(1920)だ。こういったものこそ、ホラーの古典として貴重な文学作品だと言えるのではないだろうか。
 語り手であるランドルフ・カーターの友人ハーリー・ウォレンは「禁断の事柄に関する奇妙な稀覯本」を読み漁り、ある夜、カーターと共にある墓所に行く。石板を開くと石の階段が現れ、ウォレンは一人でそこから地下へと潜っていき、何かを見て大声で叫び、ついに戻ってこなくなってしまう。実際に地下で何が起こったか、そこに何があるのか、語り手にはさっぱり分からず取り残されたまま。最後に、霊的な声だけが聞こえる。
 この簡潔な作品(および、本書中の、巻末2編以外の作品)においては、最後まで正体が明確には判明しないものへの欲望だけがあって、恐怖を盛り立てる怪奇小説においては怪異についての説明などは不要なのだということが明らかにされる。古典的な本格推理小説では事件の真犯人と真相(事情)が当初から<不在のシーニュ>として示されてそれへの欲望が、ディスクールの奔流の向かう先となっており、最後に真相のシニフィエ(意味内容)が明示されることにカタルシスがあったが、恐怖小説においては、<不在のシーニュ>への恐怖感だけが露出し読者の心を巻き込むことだけで良く、結末において真相をはっきりと解き明かす必要は全然無いのである。
 本書全編にわたってラヴクラフトは「不気味な」「冒涜的な」「厭わしい」「異常な」「邪悪な」といった形容詞を大量に繰り出し続けており、こういった単一方向に向かう表現ばかりを連続させるというエドガー・アラン・ポーのモノクロームでシンプルな構築法(「アッシャー家の崩壊」の理論)と軌を一にている。単一の方向へと情動を動員させること、すなわち音楽で言うと19世紀ロマン派の「キャラクターピース」の組成。ホラー作品では常に似たような情動性が強調されるわけだが、この心的作用は、現在も無数に作られ続けている「ホラー映画」における、無調な不協和音やクレッシェンドを駆使した音楽の用い方を見ればよくわかる。
 むしろホラー物語で最後にあまりにも辻褄を合わせた事情説明に持って行ってしまうと、逆に興が冷めてしまう場合もままある。謎の存在は謎のままでもよく、全く不条理であっても構わない。
 しかしラヴクラフトは(恐らく後期において)クトゥルー神話と呼ばれる一連の太古の歴史物語を叙述することにやがて完全に没頭し、それが長大な「狂気の山脈にて」の後半を肥大させたのだろう。そういった作者側の叙述の情熱に対し、読者はどの程度魅惑されるのだろうか。人によるのではないか。私は、延々とそればかりだといくぶん飽きてしまう気がした。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 文学
感想投稿日 : 2021年1月10日
読了日 : 2021年1月9日
本棚登録日 : 2021年1月9日

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