砂の本 (現代の世界文学)

  • 集英社 (1987年12月18日発売)
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感想 : 9
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ボルヘスを読み始めると、その途端に早く読み終えてしまいたい衝動に駆られる自分を発見する。どうしてだろう。ボルヘスの描く世界はいつもゆるゆると始まるのに。その多くは一人称で過去の話を語って聞かせてくれるように始まるのだが、ぶつぶつと話は途切れ、ようやくスムーズに話が流れ出したと思った途端、投げ出されたような感覚をもって終わることが多いように思う。この感じが病みつきになるのかも知れないと思う一方で、短編ごとにそのサイクルが早くなっていく感じがやはりするのである。読み終えてしまいたいとする気持ちが、読み手を急かすのだ。

大概において、ボルヘスの本は一気に読了される。そして、ボルヘスの短編集の終わりに配置されている物語は、今まで読んだものどれもそうだが、とりわけ印象的な話が多い。「不死の人」の「アレフ」、「ボルヘスとわたし」の「ロセンド・フワレスの物語」、そして、この「砂の本」の「砂の本」。「アレフ」と「砂の本」は、個人的には似たような雰囲気を感じ取ることができる。どちらも無限ということがテーマだ。

ボルヘスの語る無限というのは、カントールの定義したアレフとはことなり、往々にして循環による無限というものをイメージしているように思う。例えば、「砂の本」には始まりも終わりもない本というものが出てくるが、その描写からは、何かしら最初と最後が隣り合わせになったようなものがイメージとして湧いてくる。そう言えば、ミヒャエル・エンデの「果てしない物語」というのは、お話しを構成する個々のお話しの果てしなさ、二つの有理数の間には必ず有理数が存在するという無限、つまりはカントールの無限に近い果てしなさが描かれているが、その本の表紙には互いの尻尾を加える二匹の蛇が描かれており、これが示すイメージは循環だ。

「ボルヘスとわたし」の最初の話が「アレフ」で、「不死の人」の最後が「アレフ」ということにも、循環を志向する何かがある。そう言えば、「砂の本」を読む前には砂時計のような話を想像していたのだった。勿論、砂時計も、砂の落ちた先、すなわち過去が、ひっくり返されることでこれから落ちるべき砂、すなわち未来になるわけで、循環するもの、である訳だ。

「ロセンド・フワレスの物語」の構図は、ボルヘスの短編ではお馴染みのもので、既に老人となっている著者(ボルヘスを彷彿とさせる)が、昔どこかで、やはり世紀の変わり目を見て来たような前時代に属する老人から聞いた話を思い出してする、というものだ。老人の話が終わると、続いて架空の著者の話も終わる。その時の感じは、決まって、あんなに非日常の詰まった空間を保持していたサーカスが去るやいなや、元の余りにも日常的な空き地に、それも虚ろな空き地に戻る時の感じに似ている。無から宇宙が生まれ、また無に戻る、というようなイメージにつながる。それもまた、循環、である。

循環による無限と、数の存在そのものが持つ無限の違い、というのはどうでもいいことじゃないかとも言える。そうは言えるのだけれども、そのことの違いは、循環無限数と非循環無限数の違いから感じる程、大きな違いなのだ。前者が、123/999のような、お手頃な無限であるのに対し、後者は例えばπのように読み解かれる限りにおいて一度として同じ形には表し得ない類いの無限なのだ。有理数と無理数とは上手く言ったものだと感心するが、その理ではない感じというのが実は自分を魅了する。

ボルヘスは、何故長編を書かなかったのか。勿論、短編にぎゅっと濃縮されたような話というのも面白いとは思うが、ボルヘスの用意周到に計画された長編というものがあったなら、一度読んでみたいと思う。短い言葉の方が、この無限性を効果的に表現できる可能性があるのは否定しないのだが、それは、読み手の中で初めて拡がる無限世界であって、話そのものには萌芽はあるものの充分開き切ってはいないのだ。言ってみれば、循環ではない無限性、開く度に違った面を見せるような無限性を持った物語を、是非ともボルヘスには書いて欲しかったと思う。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2004年1月22日
読了日 : 2004年1月22日
本棚登録日 : 2004年1月22日

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