悲しき熱帯 (1) (中公クラシックス W 3)

  • 中央公論新社 (2001年4月10日発売)
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『ところがこうした知見たるや、もう半世紀も前から、あらゆる概説書の中にいつも顔を出していたような代物なのである。しかも、並外れた破廉恥によって、だが、お客の単純さや無知とはぴったり調子をあわせて』ー『出発』

『その進化は、南アジアが一千年か二千年、われわれより早く経験したものであり、われわれも余程の覚悟をしない限り、恐らくそこから逃げられないだろうと思われるものである。なぜなら、この人間による人間の価値剥奪は蔓延しつつあるからだ』ー『市場』

『その真理とはーー或る社会が生者と死者のあいだの関係について自らのために作る表象は、結局のところ、生者のあいだで優勢な規定の諸関係を宗教的思考の面で隠蔽し、美化し、正当化する努力に他ならないということである』ー『生者と死者』

『ただ彼だけは、こんなにも高い代価を払って得た栄光が、嘘の上に築かれていることを知っている。彼が体験したと人が思い込んでいるものは、どれひとつとして事実ではなかった。旅というのは偽りだったのだ。旅の影しか見ない人たちはには、そうしたすべてが本当らしく見えているのだ』ー『神にされたアウグストゥス』

人は結局のところ何も学べない。全ての体験は、ただ新しく知り得たことを既に自分自身の中に存在する似たようなものに引き寄せるだけのことのように思える。それなのに過去に体験したことが後になって、あたかも熟成し新な知見となって自分の考え方に影響を与えているとの感覚を覚えたりすることがある。

学びとれると思っている時には学び得ず、学び得ないと思っている時にこそ新な体験は自身の血肉となる。言ってみれば時を隔てた二人の自分に起きている変化とは、自身を守る為に高く掲げていた盾を下ろすような心持ちの変化なのかも知れない。自分の理解できる概念に現実を落とし込まないで居られる程に現実に馴れること。そうして初めて「新しい概念」が身に沁みてくるのだろう。

要すればこの大部の著作の中で著者がもがきつつ言わんとしているのはそんなことなんじゃないかと、自分には思える。禅の感覚に似たようなこの矛盾した感覚をどの章からも綿々と感じる。そして其処かしこに身に沁みる言葉に出会う。しかしそれは例外的なこと。ほとんどの文章は何も自分の中に呼び起こさない。あたかも現地の言葉や習慣が分からず、目の前で起きているひどく変わった出来事の意味をつかみかねるように、目の前を文章は流れてゆく。ひどくゆっくりと。

比較文化人類学的な資料としての価値を読み解く人ももちろんいるだろう。しかしその価値を見出だす前に、ほとんどの人は著者の体験した混沌と自責の念で本書が埋め尽くされていると感じるに違いない。混沌には自分自身の体験を容易に引き寄せることで近づくことができる。だがレヴィ=ストロースの感じている自責の念には宗教的な思考が絡んでいるようにも思え、容易には近づくことができない。いや、近づくことが憚られる。

南米のインディオの集団から何かを知り取ろうとすることがもたらす災厄。それが解っていながら真に近代文明に接して居ない人類の文化を知りたいとする欲求。「悲しき」とは、幾つもの後悔と懺悔と失望が入り交じったニュアンスを含む表現であることが、徐々に理解されてくる。あちらこちらに思いは揺れ、そして巡りめぐりながら、著者はその全てを自分の非として受け止めるかのようである。そこに信仰に裏打ちされた独特の覚悟のようなものを感じる。それを単純に一つの宗教に結びつけることは多層的な著者の思考を余りに矮小化してしまうことになるのだろうけれど、その連想は誘惑的である。ただ、そんな宗教的位置付けに意味があろうと無かろうと、実体験から長い年月を経て最終的にこの著書を書き上げた著者の根本には、その覚悟があるのだと思う。

一度きりの読書では学び得ないと解ってはいたけれど、あまりに多くの問い掛けにこの本は満ちている。それを目の前にして茫然とした思いに囚われてしまいつつ、自問せざるも得なくなる。いつ自分はそれに対峙する覚悟を固められるのだろう、と。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2014年4月22日
読了日 : -
本棚登録日 : 2014年4月22日

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