まぬけなこよみ

著者 :
  • 平凡社 (2017年4月21日発売)
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感想 : 48
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『かるたが好きなのだった。お正月で楽しみなことといえば、お年玉をもらうこと、出店に行くことの次にかるたをやることだった。親戚で集まって遊んだり、友達と新年に初めて会う時に、よくかるたをやった。わたしは年がら年中かるたをやりたかったのだが、さすがに夏場などは提案できず、正月にかるたが解禁になるのを心待ちにしていた』―『かるたの宇宙/季節のことば かるた』

津村記久子は新刊が出たら必ず買うという作家だった。今は図書館に頼る組に編入してしまったとはいえ、「君は永遠にそいつらより若い」から読み続けている作家ではある。同世代の柴崎友香(今でも新刊は必ず買う)や瀬尾まいこ(こちらも図書館組に編入されてしまったけれど)も、ほぼデビュー以来新刊を手に取り読み継いでいる作家なのだけれど、何故か三人とも大阪出身(特に意識してのことではない)。個人的には柴崎友香推しなのだけれど、彼女が芥川賞候補に挙がった頃(最初が2007年)、後から出てきた津村記久子(2008年に初の芥川賞候補)に先に芥川賞を取られた(2009年。あれよあれよという間に取った印象。一方柴崎友香は2014年に漸く受賞)のは、ちょっと残念なような、おめでとうというような愛憎相半ばする感情が湧いた記憶がある。

新刊を読むだけでは飽き足らず、ネット上に発表された文章も読んでいて、現時点でも朝日新聞社のサイト「好書好日」に月一回連載されている「となりの乗客」を読んでいるし(このサイトでは柴崎友香の「季節の地図」も読んでいます)、少し前にはWebちくまで連載されていた「苦手から始める作文教室」も読んでいた。それなのに、この連載の元となったウェブ平凡の連載を見落としていたなんて! 2012年から3年間(この時期転職などもして一番慌ただしかった時期ではあったけれど)も連載してたのに! ウェブ平凡は川上弘美の「東京日記」で必ずチェックしていた筈なのに! しかも、むむっ、このイラストはもしかして。ああ、やっぱり、オカヤイヅミじゃないですか! オカヤイヅミはベトナムに居た2011年頃に急に嵌まって「いろちがい」「すきまめし」を通販で取り寄せたり、作家本人にコミケに出す同人誌を譲ってもらったりしたこともあるのだった。ああ、残念無念。急いでWayback Machineさんにアーカイブの有無を尋ねると、連載の一部が残っており、ああやっぱり元のイラストはカラーじゃないか、と地団駄踏むことしきり。それにしてもこういうイラストとか挿絵って出版物になる時には大幅に削除されたり白黒に改変されたりしてしまうけど(まあ経費の都合ということなんだろうけど)、なんかそれも残念な気がするよね。

と、少し個人的な前置きが長くなったが、津村記久子の魅力は何と言ってもその「ぶっきらぼう」なところにあると思っている。エッセイになるとその特徴が倍増されて表現されると思うのだけれど、小説でもそのぶっきらぼうなところは主人公に反映されていると思う。それは本を正せばちょっとした社会不適合という誰もが通過する大人の階段の一段目辺りの心情が発露したものなのだろうけど、それを、頑なに適合しないぞと突っ張る感じがこの作家にはある。なので優しく表現するなら「ぶっきらぼう」は「ぶきっちょ」ということなのかも知れない。けれど同じような社会不適合をひたすら内向きに捉えるタイプの人(例えば村田沙耶香、とか?)もいる訳で、その軽い攻撃性のようなものは「ぶきっちょ」を「ぶっきらぼう」に容易に塗り替える力がある。例えば、冒頭の引用は一つのエッセイの出だしの部分だが、いきなり「かるたが好きなのだった」と来る。「それはどんな事情で?」も、「えぇと、こちらから何か聞きましたっけ?」も許さない、揺るぎのなさがそこにはある(その先制パンチのようなものに惹かれている訳だけれど)。共感も共鳴も、この作家は求めていない。少なくとも、普通の人はそう思うはずだ(SNSはやらない、何故なら即座に炎上するから、と作家が言うのも何となく分かる気がする)。実際、本書の七十二候に因んだ七十二篇のエッセイを読んでも中々「ああ解かるわかる」というような読み方はできない(自分が京阪地域に詳しくないせいもあるけれど)。あるいは、思い出話を聞きながら、ああそう言えば自分の小さい頃は、という風に思考が漂っていくこともほとんどない。なのに聞き入ってしまう、不思議な魅力。作家に倣って音楽的趣味で例えるなら、鬼束ちひろに聞き入ってしまうような感覚、かも知れない。

『ここは田舎だなあと思える風景の要素はそれぞれにあると思うのだけれど、わたしにとってそれは田んぼである。田んぼがある=田舎、田んぼがない=田舎ではない、という非常に単純な区分だけが、頭の中にある。本当は、田んぼに囲まれた特急の停まる駅があることも知っているし、田んぼのない山奥があることも理性の部分ではわかっているのだが、小さい頃にその分け方が身に付いてしまったので、それがなかなか頭から出ていかない』―『田んぼの恐怖/季節のことば 田んぼ』

と言いつつ、このエッセイだけは思考がふらふらと漂い出てしまった。それは自分がほとんど田圃の見える風景から離れたことがない(関東平野の東側に居れば田舎でも半都会でも田圃は常にすぐ傍にあるもの)せいでもあるが、田圃へ落ちるという恐怖感が共有できるからでもある。通学途中で自転車で落ちた友人を目撃したこともある。そもそも田圃に限らず、プールの縁を歩いていてもなんだか水に引き込まれそうになる感覚に抗うのが常なのだ。それを他人に言っても共感してもらったことはほとんどないんだけれどもね。それでふと、この作家は他人に共感してもらえなかった経験を幾つも幾つも忘れずに記憶していて、文章を書く糧にしているのかな、と思ったり。

因みに、本書の元になった連載の第一回は暦の初めの一月からではなくて「もっともふしぎな華」と題された彼岸花にまつわるお話なので中秋の候。そして最終回の第七十二回は「ツバメと縁結び」で、こちらも春ではなく秋。あれっ、連載も七十二回あって、本書には二篇の書き下ろしが加わっているのに七十二編。むむっ、ということは。その掲載されなかった二回分はどんな話だったのか、気になるね。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2023年2月24日
読了日 : 2023年2月24日
本棚登録日 : 2023年2月24日

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