教養としての冤罪論

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  • 岩波書店 (2014年1月24日発売)
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裁判員制度が施行されて5年が経過する(2014年5月21日現在)。この間、4万8000人が裁判員として審理に参加したという。裁判員に選ばれる確率は、住んでいる場所によって幾分の差はあるが、法務省によれば1年あたり有権者の約0.01%程度である。べらぼうに高くはないが、天文学的に低いわけでもない。

裁判員制度は、国民の司法参加を通じて、裁判を身近に感じさせ、司法への理解を高めるのが目的とされている。
対象となるのは、殺人・強盗・強盗致死傷・傷害致死など、死刑や無期懲役が科せられうる「重い」刑事事件である。
もちろん、被告人が有罪とされる場合も無罪とされる場合もありうる。

本書は冤罪を主眼に置く。
「市民感覚」を裁判に持ち込むことで、無実の人が罪を被せられることを防ぐという視点である。なぜ市民感覚が重要かといえば、それは「明日は我が身」であるからである。「冤」という字はそもそも、兎が捕らわれて外へ出られない状態を示す。弱い立場のものが強いものに自由を奪われるという状況を、弱い者の視線から見たらどう判断できるか、ということだろう。
これはいささか新鮮な観点だった。自分の中にも被告はどちらかといえば有罪であるという先入観があったということか。

「刑事裁判はすべて冤罪である」「すべての自白は強要である」といった扇情的な見出しもあるが、内容的にはさほど極端ではない。刑事裁判において冤罪のリスクはあるものであるし、多くの場合、自白は捜査官の(強制や拷問を除くとはいえ)働きかけによってなされる。ここでいう「すべて」はすべての事例でその「可能性」があることを考慮すべきだというだろう。

事件を考える上で、著者は「犯罪の構成図」と「証拠の配置図」(著者によればC & Pダイアグラム(*何の略なのかはきちんとしめされていない。crime & proof?))を考えるよう提唱している。
要は、犯罪において、いわゆる「5W1H(だれが、いつ、どこで、誰に、何を、どのように、したのか)」がどういった構成になっており、それに対する証拠はあるかどうかをはっきりさせることである。
著者は具体的な事例をいくつか挙げて、どのような犯罪に対して、どういった証拠が示されて、有罪・無罪が決められたのかを示している。
全般として、犯罪をきちんと実証することは実はかなり難しいことなのだなという印象である。もちろん、例として挙げられているのが、冤罪性の高い、問題の多い事件ということはあるのだろうが。
いつでも「強い」物証が存在すればよいが、そうでない場合には自白が大きな役割を果たすことになる。だが、「自白」は往々にして、捜査官とのやりとりにおいてなされるものである。見込み操作や別件逮捕と自白が絡み合った場合には、冤罪の可能性をよくよく考慮する必要があるという。
個々の事例に取り組むことが目的ではないため、1つの事件に非常に深く踏み込むわけではないが、さまざまな冤罪が挙げられることで、感覚的に、なるほど、このようにして冤罪が成立することがあるのだな、と実感として感じられる点が利点である。

死刑が科せられるような事件では、裁判で無罪となるか有罪となるかで大きな差が出る。極端な場合、無実の者を死刑にすることになるのか、真犯人を野に放つことになるのか、その二者択一となってしまう。
著者は冤罪性が少しでも疑われるのであれば、極刑執行は避けるべきであり、裁判のあり方自体が変わっていくべきだと説いている。このあたりは一般市民がどうこうできることではなく、法曹界に向けた提言ということになろうが、市民の側もその視点を持つことは重要なことだろう。


*とはいえ、自分がもしも裁判員候補になったら、と思うと、拘束時間の長さなど、いろいろ考えると二の足を踏むところはありますねぇ・・・。実際に候補になってみないとわからないところではありますが。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 犯罪
感想投稿日 : 2014年5月20日
読了日 : 2014年5月20日
本棚登録日 : 2014年5月20日

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