15~17世紀の中世ヨーロッパで、「魔女狩り」の嵐が吹き荒れた。
それは、異端審問(inquisitio pravitatis hereticae)ともっともらしく呼ばれながらも、実のところ「狩り」というのがふさわしい、野蛮で残酷な狂気の沙汰であった。
「魔女」と見なされたのは、女性ばかりではない。男性も「魔女」として裁かれることがあった。年齢も問わず、幼児から老人まで、まさに老若男女、さまざまな人々が「魔女」の疑いをかけられた。身分階層も関係なく、昨日は学識ある紳士・純潔な乙女と呼ばれても、今日「魔女」にされることもあった。彼らの多くは、いやすべてと言ってよいのだろうが、もちろん「魔女」ではなかった。得てして「神」に背く気などさらさらない善良な人々が「魔女」として捉えられ、猛火に焼かれた。
記録も不十分なことから、いったいどれほどの人がその犠牲になったかは定かではないが、数十万から数百万の無実の人々が処刑されたと見られている。
なぜそのようなことが起こりえたのか。
1つの背景として、当時、「魔女はいる」ことは大前提であった。教会の大きな権威の元、神に背く「魔女」が必ずどこかに潜んでいるとなれば、人々はそれを探そうと躍起になるだろう。少しでも怪しいことがあれば、「あれは魔女だ」と告発される。よしんばそれに疑いを抱く者があっても「お前は神を疑うのか、魔女をかばうのか、お前も魔女なのか」と言われかねないのなら口をつぐんでしまうだろう。
「魔女」と目されたものは連行され、尋問される。尋問と言っても、裸にして鞭打ったり、指を木ねじで締めつけたり(時には骨も砕ける)、体を横たえて四肢を四方に引っ張ったり、と身体的苦痛を与えるものである。これはすでに拷問だろうと思うわけだが、「公式」にはこれは「予備尋問」であって拷問とは呼ばれなかった。この段階で「自白」が得られれば、「拷問なしに自白した」ことになる。
これでも自白しない場合には(魔女ではないのだから、普通に考えれば「自白」などできないわけなのだが)、本格的な拷問が待っている。体を吊り上げ、吊り落とし、水責めにし、ありとあらゆる残酷な方法が取られる。
「魔女」ではなく、「自白」しようもない事柄を、無実の人々はどうやって自白したのだろうか。
当時は明確な「魔女像」があった。秘密の集会に行く。悪魔との淫行にふける。体のどこかに魔女のあざを持つ。黒犬にまたがって夜空を飛ぶ。
拷問を受けながら、「お前は魔女だろう、これをやっただろう」と言われれば、苦痛のあまりに、身に覚えのないことであっても「自白」してしまうだろう。
魔女狩りに遭った人々は、いずれにしろ「魔女」だと決めつけられているので、どのみち逃げ道はない。「自白」するまで拷問されるか、拷問の果てに死んでしまうかということになる。自白をしない場合には、唆す悪魔の力が強いということになるのだ。酷い例では、手足を縛って池に投げ込むという「判別法」がある。浮かべば魔女の証明となり処刑される。沈めば魔女ではないが結局のところは溺れ死んでしまう。酷い話である。
尋問では、「共犯者」についてもしつこく聴かれる。拷問の厳しさから、心ならずも友人・知人の名前を挙げてしまう。後悔して取り消そうとしても一度口から出たものは取り返しがつかない。それらの人々も連行されて処刑される。
処刑される前に自白を取り消す例もなくはなかったが、多くはなかった。
大抵の処刑は火刑である。だが自白した場合には、火刑の前に絞殺されるのが常であった。生きながら焼かれるよりはましと絞殺を選ぶ者が多かったのである。
審問の際にかかった費用(拷問の費用や、裁判官・処刑人の日当、火刑の薪代等も含む)は、魔女本人が支払うべきものとされた。処刑の後、財産が没収されてその費用に充てられた。「魔女」が裕福であれば、得られる財産も多い。
宗教の名のもとに行われた魔女裁判だが、「金になる」側面が隆盛を助長した面も否定はできないだろう。
いやはや、怖ろしいことである。
パスカルは
人間は宗教的信念をもってするときほど、喜び勇んで、徹底的に、悪を行なうことはない(「パンセ」)
と言ったという。
自らが「正しい」と信じたとき、それが「権威」と結びついたとき、どれほどのことが起こるのか、心に留めておくべきだろう。
魔女狩りの歴史をコンパクトにまとめた啓蒙の書、一読の価値ありである。
- 感想投稿日 : 2020年6月11日
- 読了日 : 2020年6月11日
- 本棚登録日 : 2012年7月30日
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