ハイデガーの『存在と時間』は多感な青春期に読む本というイメージを持っていたけれど、どうやら違うようだ。その背景には、長大な哲学史が横たわっている。特にアリストテレス。
プラトン以降、そしてその弟子のアリストテレス以降、存在は制作物として捉えられてきた。カントによってでさえも。ハイデガーはその系譜を描こうという壮大な構想を練っていたらしい。その一部が現存する『存在と時間』。
ニーチェが古典文献学者であったように、ハイデガーもまたそうであった。両者の著作ともに、オリジナルな用語が頻出するが、実はオリジナルではなく、哲学史に逐一典拠をもつということがわかって驚いた。
とりわけ刺激的だったのは、ハイデガーの「世界内存在」という概念が、弟子の日本人哲学者が送った岡倉天心の『茶の本』で言及されていた荘子の言葉に由来しているかもしれないという説。
そのくだりを読んで感動。なぜなら、ハイデガーは本書によれば、ソクラテス以前の、生々流転する自然を存在の本義と捉えている節があるから。そこで、荘子とヘラクレイトスが出会う。
まるで、出発点と終局点が西洋と東洋で逆になっているよう。西洋哲学は長い時間をかけて東洋的なものを目指し、東洋思想は西洋的なものを目指してきたみたいに読める。
2000年近く離ればなれになっていた双子を見るようだ。
読書状況:読み終わった
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カテゴリ:
哲学・思想・宗教
- 感想投稿日 : 2012年11月18日
- 読了日 : 2012年11月18日
- 本棚登録日 : 2012年11月18日
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