花森安治伝: 日本の暮しをかえた男

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  • 新潮社 (2013年11月22日発売)
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津野海太郎が書いた花森安治の評伝。津野自身が編集者として多くの仕事をしてきた人だ。その津野が花森に関する資料を読みこんで書いている。

▼…こんど酒井寛の『花森安治の仕事』をはじめとする関連資料をまとめて読んで、あらためておどろいたのだが、『暮しの手帖』というのは、じつは偶然のきっかけからはじまった雑誌だったのである。最初に思いついたのも花森ではない。たまたま知りあった大橋鎮子という女性で、まだ二十代だった彼女の提案をうけて、女性むけの生活雑誌をだすという計画が花森の頭にはじめて根をおろしたようなのだ。(p.11)

花森安治は、1911年、神戸にうまれ、敗戦時は33歳だった。私の祖母と一つ違いだ。祖母も、同じ時代にこういう歳だったのだと思いながら読む。大学まで出た花森と、敗戦時には学校にあがる前の子どもが3人いた祖母とは、同世代といっても、だいぶ違うのだろうけれど。

"東大の美学を専攻せず、美術学校へ進んだならば、ひとかどの画家として大成した人物であろう"という人物評もあった花森は、しかし、その道を選ばなかった。

▼おそらく花森にあったのは、少年時代にアヴァンギャルド芸術運動のコラージュ理論などをつうじて身につけた、ゼロからの創造だけが創造ではない、既成のなにかとなにかを組み合わせて別の阿他らしい意味をつくりだすのも創造のうちなのだ、という確信のごときものだったのだろう。好きなモノやカタチやコトバをあつめ、えらび、それらをつないで、これまでだれも気づかなかった新しい美しさや力を浮かびあがらせる。純粋芸術家として「大成」するよりも、じぶんの能力の使い道はそちら側にあるような気がする。だいいち、そっちのほうがずっと面白そうじゃないか。(pp.82-83)

戦中のことについて花森が語ったものに、『中央公論』の1952年11月号での池島信平、扇谷正造との鼎談「元一等兵の再軍備観」があるという(p.107、『花森安治集(いくさ・台所・まつりゴト篇)』に再録)。そこには、「読みたい本があるならおれが許可の判を押してやる」と花森に言った、ハンパな人間への思いやりのあった老大尉が兵隊あがりだったことが語られている。

「いま」という時点から「わかったような」つもりで過去を見ると、見まちがうことがある。「いま」は批判されるようなことも、その時代には新鮮なものとして受けとめられていたりする。

▼…いま大政翼賛会ときくと、私たちは反射的に、一国一党のナチス型全体主義国家による強力な統制機関を思い浮かべる。つまり暗いイメージ。しかし、かさねていうと、発足時のイメージはかならずしもそうではなかった。1936年の2.26事件、翌37年の盧溝橋事件と、先の見えない閉塞感のうちに閉じ込められていた日本人の多くは、大政翼賛会による「新体制」実現を旗印にかかげた第二次近衛内閣の登場を、どちらかというと熱狂的に迎えたらしい。
 花森安治も例外ではなかった。「清新」とか「颯爽」という煽りことばがジャーナリズムにとびかうなかで、かれのうちにもいつしか、あそこに行けば時代の最先端をその中心にいて体験できそうだという期待が生じていたのだ。その根のところには「とにかく、日本という国を守らんならん」という愛国心があった。いまこの国を守るには軍部や政党や官庁をはじめとする既存のしくみをまるごと変えてしまうしかない。それがやれるのは近衛公爵ひきいる新体制(日本型ニューディール)運動しかないだろう。(pp.144-145)

大政翼賛会の宣伝部で、花森は、「欲しがりません勝つまでは」とか「ぜいたくは敵だ!」という、「いま」の時代にも伝えられている標語にも関わったらしい。

そんな過去について、1971年、『週刊朝日』誌上で、花森はこう語る。「ボクは、たしかに戦争犯罪をおかした。言訳をさせてもらうなら、当時は何も知らなかった、だまされた。しかしそんなことで免罪されるとは思わない。これからは絶対だまされない、だまされない人たちをふやしていく。その決意と使命感に免じて、過去の罪はせめて執行猶予にしてもらっている、と思っている。」(p.178、引用)

そして、衣裳研究所を発足し、そこでの暮らしの研究の成果を、雑誌のかたちで発表してゆこうと、若い大橋の希望に、いちどは中途半端に終わった自分の計画を合流させようと、花森はそう考えたのではないかと、津野は書く。

▼─以前、私は「日本人の生活を変える」というじぶんの夢を、大政翼賛会という官製の国民運動のなかで実現しようとこころみた。しかし、それはあきらかなまちがいだった。これからは政党や官庁や企業や大学など、他人がつくった組織には一切かかわらない。支援ももとめない。すべてをじぶんと少数の仲間だけでやる。
 したがって、こんどの仲間は政治家でも役人でも企業人でも学者でもない。日本人の暮らしを実質的に支えてきた女性たちである。もちろん男性がいてもいいが、とにかく中心は女性。(p.180)

『暮しの手帖』発刊の辞に関して。
▼1948年(昭和23年)の日本で「あなたの暮し方を変えてしまう」と花森がしるすとき、その「暮し」は、まずは戦争直後の、住む場所どころか食うものも着るものもない、貧困のどん底にまで落ちた日本の社会と、追いつめられた人びとの生活を意味していた。
 あとにつづく「変えてしまう」も同様である。日本人が廃墟の街から新しい一歩を踏みだすには、戦前戦中の日常を支配していた神がかり的な精神主義をしりぞけ、めいめいの生活に明快な合理性を大胆にとりこんでゆく必要がある。(pp.186-187)

花森へのインタビュー「僕らにとって8月15日とは何であったか」
▼そのとき[戦争が終わって最初の2、3年=幻の時代]、おぼろげながら思いついたことは、戦争を起こそうというものが出てきたときに、それはいやだ、反対するというには反対する側に守るに足るものがなくちゃいかんのじゃないか。つまりぼくを含めてですよ。(略)一般のわれわれは、それがなかったから簡単にゴボウ抜きだ。抜く必要もない。浮いておるんだから、こっちへこっちへ寄せてくれば、すくいとられてしまう。風呂のアカみたいなものだった。
 それでぼくは考えた。天皇紙御一人とか、神国だとか、大和民族だとか、そういうことにすがって生きる以外になにかないか。ぼくら一人一人の暮らし、これはどうか。暮らしというものをもっとみんなが大事にしたら、その暮らしを破壊するものに対しては戦うんじゃないか。つまり反対するんじゃないかと。(p.212、引用)

1968年8月刊行の『暮しの手帖』96号は、大特集「戦争中の暮しの記録」を組んだ(のち、『戦争中の暮しの記録―保存版』の単行本となる)。

この特集の編集が終盤にさしかかったころ、ある通信社のインタビュアーが、これほどの戦争体験をなぜこれまで若い人たちに伝えることができなかったのかと問うた。それに対する花森の答え。

▼それは自分たちの体験が罪の意識に変わってしまったからです。私にしても戦争中は三十代だったが、自分のしていることは最も崇高なことだと信じていたし、それだからあの時代に生き抜いてこられたわけです。ところが戦争が終わったとたんに、すべての価値はひっくり返ってしまった。戦争に行ったのが悪であり、隣組の班長をしたことが、いやな目で見られた。(略)しかし多くの人たちは、ハラの底ではお国のために尽くしたのがなぜいけないのかと思っている。しかし世の中は民主主義の時代であり、そんなことはいえない。(略)また戦争に負けたというショックも大きいし、自分の生き方がどこまでが正しく、どこが悪いのか価値判断もつかない。そこで男はだまってしまったのです。(略)ところが女性は違う。自分の体験は間違っていなかったという強い自信がありますね。(「二十二年目の"戦争体験"」)  (p.275、引用)

「あとがき」で、津野はこう記す。
▼まちがったあとも人は生きる。生きるしかない、そこでなにをやるか。日本人の暮らしを内や外からこわしてしまう力、具体的にいえば戦争と公害には決して加担しない。できるかぎり抵抗する。それがいちどまちがった花森のあらためてえらんだ道すじだった。(p.301)

「まちがったあとも人は生きる」というのは、戦時のことに限らない、どんな人の生にもいつもあることだと思う。まちがったあとにどう生きるか、何をやるか。その点で花森のえらんだ「暮し」にフォーカスした生き方は、偶然もあるとはいえ、反省とか抵抗のあり方のひとつなんやなと思う。

(2/2了)

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 図書館で借りた
感想投稿日 : 2014年4月11日
読了日 : 2014年2月2日
本棚登録日 : 2014年2月2日

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