意志と表象としての世界 (2) (中公クラシックス W 37)

  • 中央公論新社 (2004年9月1日発売)
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普通人にとって認識能力とは、自分の実生活上の道を照らしてくれる提灯であるが、天才にとってのそれは、世界を明らかにしてくれる太陽である。p46

「草木はこの世界の仕組みが目に見えて美しいかたちをなすよう、感覚に対しその多様な形態を提供して知覚に役立ててくれる。草木は自分では認識することができないから、いわば認識されることを欲しているようにみえる」(聖アウグスティヌス『神国論』)p91

純粋に後天的(アポステリオリ)には、つまり単なる経験だけからでは、いかなる美の認識も可能にならないであろう。つねに美の認識は、先天的(ア・プリオリ)である。それはわれわれにア・プリオリに知られている根拠の原理の形態とはまったく違った種類の認識ではあるが、少なくとも部分的には、美の認識はア・プリオリなのである。p123

人間の美とは、意志の認識可能性の最高の段階における意志の完全な客観化である。p126

真の詩人の叙情詩のうちには、人類全体の内心が写しとられ、過去、現在、未来に生存する幾百万の人間がいつの時代にもくりかえし出会っていた似たような境涯で感じたこと、またこれからも感じるであろうことは、真の詩人の抒情詩のなかに、適切な表現を得ているといえる。幾百万の人間が置かれてきた境涯は、またこれからも休みなく繰り返され、人類そのものと同じように恒常的な境涯としてありつづけ、つねに変わらぬ同じ感情をよび起こすものであるから、真の詩人の叙情的作品は、千万年を貫いて真実で、感化を与え、またつねに新鮮である。なんといっても詩人とはそもそも普遍的な人間のことだからである。いずれかの人の心を動かしたこと、いずれかの境涯で人間の本性から生じたようなこと、いずれかの場所で人の胸に棲みつきしだいに大きくふくらんでいったこと―これらはすべて詩人のテーマであり、詩人の素材である。p187

意志は個体のかたちで現象するが、個体の死後も意志は相変わらず生きつづけているのであって、別の個体のかたちをとって現象しつづけるのであり、ただ後の方の個体の意識が前の死んだ個体の意識となんらつながりをそなえていないだけである。p217

ヴェーダでは次のように表現されている。
人が死ぬと、その人の視力は太陽と一つになる。その人の嗅覚は大地と、味覚は水と、聴覚は大気と、言葉は火と一つになる。p275(脚注)

わたしの見解では意志こそ第一のもので、根源的なものであって、認識はあとから意志に単に付け加わったものにすぎないのであり、意志の現象にその道具として帰属しているものが認識である。それゆえいずれの人間も、そのあるがままの相は、意志からこれを得たのであって、意志の性格が根本であり、意欲はその本質の根底をなしているからである。これに認識が付け加わるにつれて、人間はだんだんに経験を重ねていくうちに、自分が何であるかをやがて知っていき、すなわち自分の性格をわきまえるようになっていくだろう。つまり人間は、意志の結果として、また意志の性能に応じて、自分を認識するのであって、古いものの見方にもあるように、認識する結果として、また認識に応じて、なにかを意志するというものではそもそもない。p290-291
→古い見方では、人間は認識したものを欲するというのであるが、わたしの見方では、人間は欲したものを認識するのである。

スコラ哲学者「究極原因はそれが実際に何であるかに応じてではなく、それがどう認識されているかに応じて作用する」(スアレス『形而上学論議』)p296

エピクテトス「人間の心を乱すのは事物ではなく、事物についての意見である」p306

意志はそれ自体としては、現象を離れたときには、自由であり、いな、ほとんど全能というべきであるが、認識によって光を照らされた意志の個々の現象、つまり人間や動物においては、意志は動機によって規定されているのであって、この動機に対し(人間や動物の)そのつど異なる性格が反応するが、反応の仕方はいつも同じで、合法則的であり、必然的であるということがこれまでの考察でわかったのである。p309

享楽であれ、名誉であれ、富であれ、学問であれ、芸術であれ、美徳であれ、それらのいずれかを求めようとする一定の努力は、われわれがその努力に関係のないあらゆる要求を捨てて、また他のあらゆるものを断念したあかつきにのみ、ほんとうに真剣に、そして上首尾に追求することができるものなのである。p316

[就活や、将来について、有益なアドバイス]p317
単に、やってみたいという意欲があるとか、やればできるという能力があるだけではまだ不十分であって、人間は自分が何をやってみたいかと欲しているかを知っていなければならないし、やれば何ができるかを知っていなくてはならないのだ。かくてはじめて彼は性格を示すことになろうし、そのあとでようやく彼はなにか正当なことを成し遂げることができるであろう。そこに到達するまでには、彼には経験的性格の自然な帰結がそなわっているとしても、まだ無性格である。で、彼は大体において自分に忠実な人で通し、自分の魔神(デーモン)に引かれつつ、おのが進路を一目散に走り抜ける人に相違ないとわかっていても、それでも彼は真一文字の線を描くことはなく、震えた不揃いな線を描き、動揺したり、横にそれたり、後戻りしたりして、後悔と苦痛のたねを蒔くことになろう。こうしたことはすべて、人間におこない得ること達成し得ることは大なり小なり多数あることを現に目前にしていながら、そのなかで自分にだけ適するものは何であるかを彼が知らないために起こることなのである。

オウィディウス「心を惑わす苦しみの絆をひと思いに断ち切る人は、魂の最良の救い手である」(『恋の葉』)p324

満足はつねに新しい努力の起点であるにすぎない。努力がいたるところで幾重にも阻止され、いたるところで戦闘しているさまをわれわれは目撃する。かくて、そのかぎりでは努力はつねに苦悩である。努力の究極の目標というものはなく、それゆえ苦悩にも限度や目標はない。p330

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 哲学・思想・倫理
感想投稿日 : 2014年3月26日
読了日 : 2014年4月30日
本棚登録日 : 2014年3月26日

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