金毘羅 (河出文庫)

著者 :
  • 河出書房新社 (2010年9月3日発売)
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感想 : 12
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サイードが『文化と帝国主義』の中で「帝国主義」という定義に触れ、領土を支配するイデオロギー的な理論と実践、またそれがかかえる様々な姿勢だって言っていたけど、日本風土の基層から笙野節でそのことが書かれているんだよ。サイードさんと笙野さんって結びつき難いようで奇妙な私の中の結び付きを感じた。

「日本国民の殆どはロジックに載せてまともに日本語を使う能力などありません。矛盾した事をころころいいながら自分の感情だけ身振りだけを表現するのです。職場ならば力関係で物事が決まります。家庭ならば言葉はただ身振りと感情でやりとりされて、愛情や調和があれば、それでいい」p121

「そんな私の、金毘羅の目から見れば、例えば文学の世界で語るべき事が何もないと言っている人間は新しく語るべき現実から目をそむけているだけだと判りました。また『私などない』といっている人間は自分だけが絶対者で特別だと思っているからそういう負抜けたことをいう」p125

「金と科学の国、とはいえ金毘羅的なものをすたれさせる原因は別に戦後だけではなく明治も同じでした。そもそも国家の根源にキリスト教、もとい天皇という迷信があり、差別や非合理な制度が一杯あった。それを迷信と呼ばない以上、人々の理性は曇ったままなのです。そして理性の彼方で本来健全に機能するはずの信仰というものは、国家的迷信に洗脳された愚民の手で隠され、戦前は全部ヤマト系の神々の下に一本化系列化されていた。」p132

「それ故、インテリから『ないこと』にされ野放しにされた『心の問題』・信仰の方は結局迷信化し、お金と数字を伴う、けったいな理論を挟まれた偽科学に化けた。挙句、戦前、ただ一種類だった愚民は、二種類に分かれた。ひとつは国家的迷信に洗脳された愚民、もうひとつはその国家的迷信を信じている普通の愚民を冷笑し、しかしなぜ信じているかということを解析する能力はなく、ただ自分たちだけは違うとひたすら思い悩んで、そして贋数学贋科学の世界に逃げ込んでいる腑抜け的愚民だった。そういう人たちが宗教にハマると、『高級な』宗教的思想だけを問題にして祈らないのである。」p132-133

『金毘羅』の根底にあるもの、それは私小説という体裁をとりながら、人間嫌いな「私」の根源に辿りつこうとする地層を横断する試みであり、その姿勢が強烈過ぎる。

「仏教的な大きい世界観や来世観、個人の自我の要求に応じたものをとりいれてきた。しかし明治期の神仏分離で政府はそれらを全部無かったことにして、いきなり清潔な国家神を復活させたのだ。『わしら』の神であった。しかもそれは単なるでかい国家という『わしら』の神だった。」p295

「『日本人は不思議だ葬式は仏教で結婚式は教会、お宮参りは神社』不思議なんかじゃない。ただルーツが消されただけ。見えなくさせられただけだ。それが日本人だ。神仏習合の歴史が日本の祈りの歴史。神は仏なしには語る事ができない。」p295

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
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感想投稿日 : 2010年10月7日
読了日 : 2010年10月5日
本棚登録日 : 2010年10月5日

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