一般に流布する説と異なる説を著者が唱える点がいくつかある。南部仏印進駐が米の全面禁輸発動に繋がる可能性は、陸海軍中枢の少なくとも一部ではある程度考慮されていたこと。南方進出と対英米開戦は日中戦争の状況打開のためではないこと。日米戦は中国市場争奪を巡るものではなく、米にとり中国市場は対日戦を行ってまで守るべきものでもなかったこと。開戦時、陸軍には一応戦争終結方針があったこと(米を直接屈服させることはできないため、独伊と連携して英の屈服を図り、米の継戦意志を喪失させる)。
独ソ開戦が後の日米開戦に影響していたことが分かる。三国同盟と日ソ中立条約の四国提携による対米牽制という松岡・武藤の構想はそれなりに効果的だったようで、米も日米諒解案に取り合う。しかし独ソ開戦により米は態度を硬化。
1941年4〜6月の「対南方施策要綱」の時点では、陸海軍とも英米不可分の共通認識。また、米の全面禁輸を予想しつつも南部仏印進駐を実行した理由を、著者は武藤の構想として、禁輸により対ソ開戦を不可能として対米交渉を行うためとしている。
1941年夏頃からは、外交交渉派の武藤と対米開戦派の田中の対立が一層激しくなるが、著者はその背景に永田と石原の影響を見る。次期大戦にどう対処するかが戦略構想であり、三国同盟や大東亜共栄圏は選択肢の1つに過ぎなかった、永田直系の武藤。一方の田中は石原の世界最終戦争論点の影響を受けていた。
海軍は対米開戦に消極的だったが、10月末の大本営政府連絡会議で、嶋田海相が「自分1人が反対したために時期を失したとなっては申し訳ない」と態度を変更したことで、日米開戦やむなしとの意見が大勢となる。
- 感想投稿日 : 2021年6月25日
- 読了日 : 2021年6月25日
- 本棚登録日 : 2021年6月25日
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