パイプのけむり さて

著者 :
  • 朝日新聞出版 (1984年9月1日発売)
4.00
  • (0)
  • (1)
  • (0)
  • (0)
  • (0)
本棚登録 : 7
感想 : 2
4

創作に臨む、こういう厳しい姿勢を保ち続けられる人が、プロなのだな……
自分のレベルがはるかに及ばなくても、この高みを目指していくことが、進歩や上達につながる、着実な道なんだろうな……



p105 『たかが』

 たかがを大切にするようになって暫くして、僕の心の中には、もう一つ別のたかがが育って来た。それは今述べたたかがの論理とは全く逆行して、たかがの水を自分の頭上に冷たく掛ける事である。
 創作に最も大切な基礎的な思考形態は、人間の心そのものを成立せしめている主観と客観の二極に対する理知的な分析と洞察であろう。特に音楽のような無重力、不可視の世界での創作は、二極のその何れかの方向にどんなに流されても、作品そのものは一応存在し得るだけに、常に、強烈な主観――感覚と、透徹した客観――論理を心の中に共存させる自己訓練をしなければ、一見作品らしいものは書けても、碌な作品は書けないと思う。現代の本当の音楽の創作は、昔風の天衣無縫のものでも無ければ、そこいら辺に鳴っている流行歌のような、無知にして次元の低い主観に頼って継ぎ接ぎされるものでは無いのである。
 さて、僕は机の上で考える。今作り上げた旋律は、和声は、対位法は、律動は何と美しいのだろう。次の瞬間、僕はたかがの冷水を僕の頭に掛ける。たかが僕が考えて生んだ旋律、和声、対位法、律動じゃ無いか。美しいなどと呼び得るものでは無いかも知れない。僕はたかがの冷水の飛沫の中で、知能を傾けて、それ迄の創作過程では最善と思われたその要素を、出来得る限り冷酷無残に分析し、批判する。それは、心の中で、叩き、踏み潰し、苛め殺すに似ている。そして、美として考えられ、生み出されたものゝ八割は僕自身の手で殺され、捨てられ、生き残った僅かのものだけが集約のプンクトから外界に定着されて行く。音楽だけを述べたけれども、文章を書くという作業も、思考を纏めるという作業も、――要するに書斎という修羅場で行われる孤独な作業は、総べて、たかが三十二分音符、十六分音符一箇でも、一箇の文字でも、一瞬の思考の震えでも、それをたかがと思わずに坐り抜く態度と、そうして孤坐する自分がたかが僕なのだという冷水を自らが浴びせ掛ける事の連続であり、交錯であり、たかがの思想は、この二つのたかがを使い分ける事に依って、大分形が出来上がって来た訳である。

 たかがの語は、先にも記したように、一寸危ない語である。もしも使用法を間違えて、他人にたかがの冷水を浴びせ、小さな事と思われる事をたかがの一言で疎略に片付けるような誤ちに陥れば、たかがの効力は瞬時にして失われ、蓋を取ったパンドーラの函からは、恐ろしい禍(わざわい)と不幸がぞろぞろと這い出す事になってしまうだろう。エピメテウスにならぬよう心掛けたいと思う。



p236
大矢數という、「限られた時間内に限られた空間的制約の中でどれだけ多くの矢を射、標的に命中させるかという江戸時代に行われた弓道上の競技の一つ」が、自分の受験時に師匠から課せられた厖大な課題だと書かれていて、これを耐える精神と耐久力のすさまじさを思う。
人は自分に向けられた速度や量に慣れるから、音ゲーなんかも、最難度レベルを練習してからレベルを落とすと、目が慣れているから上達が早いという。
これを、自分で課すのはとても難しいことだし、他人に課されても乗り越えることが難しい……
器をあふれさせて壊すんだよ、ものすごい量をこなしたあとは、器が大きくなるから、と言われたけれど、確かにちょうどのところで満足したら器はそのままなんだろうな……自分の生ぬるさをつくづく実感する。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 対談・インタビュー・エッセイ
感想投稿日 : 2014年3月29日
読了日 : 2014年3月29日
本棚登録日 : 2014年3月29日

みんなの感想をみる

コメント 0件

ツイートする