クレヨン王国 三日月のルンルン PART1 (講談社青い鳥文庫)

著者 :
  • 講談社 (1999年2月15日発売)
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感想 : 5
4

この本だったかな、109番目かな
ススキの描写が美しかった。
天をさす指のようなのや、くるんと巻いた柴犬の尾のような、とか列記してあって。そうそう、ススキって巻いてたのが、ほつれるんだよねえ


子ウサギのルンルンちゃん。
ルンルンは、福永さんの飼ってらしたウサギで、この話を書いたのは、ルンルンが天国……クレヨン王国で、楽しく遊んでいてほしいという願いを込めて書かれたそうな。
それを知ってから読んだら、ルンルンちゃんの仕草の描写が切なくて。
嬉しくてたまらなくて、とびあがって途中で腰の向きを変えるルンルンちゃんや、べたっとひれふして鼻をくっつけてくるルンルンちゃん。
いとおしさが伝わってきます。
三木さんが、このときは時間があったのだか、それともそのルンルンちゃんの話を知っていたのだかで。
クレヨン王国は、通常の挿絵の常識を破壊するくらいに奔放な割り振りにしていることがあり、文字組を絵のためにずらしたり、枠外に絵がついていたりもするのだけれど。
ルンルンちゃんのパラパラ漫画が、枠外についていてねえ……
顔を洗ったり、跳んだり、丸くなって寝ちゃったり。
また三木さんて、たまにアラエッサが真っ黒な鳥になってて「なんじゃこりゃ、カラスじゃないんだぞ」って思ったりもするんだけれど、ものすごく雰囲気のある絵を描く方で、たまにそれが凝縮されていて。
パラパラ漫画のルンルンちゃん、とてもかわいかった。

p50
つる草連合
クズ、ヘクソカズラ、トコロ、ヤブガラシ
→調べること。クズとヘクソカズラしかわからん。ヘクソカズラ、花はかわいいんだよねえ。実がくさいんだよねえ
→→トコロ、引っかかりすぎる。オニドコロ……んー、あのヒルガオっぽい葉のやつかあ


前にあとがきで書いてらした、みんなが赤ちゃんに、愛情を目で教える話
「どんな猛獣も、まず、やさしさから教える。それは、やさしくなければ、種として生き残れないからである。子どもを産んで育てる、という行為は、やさしさがなければ不可能なのだから」
を、生活光線として書いていた。この反対を反生活光線、または憎悪光線と。
老人と子どもの間には普通ならば生活光線が出る筈なのに、憎みあっている、青黒い青ころりの色が出ていると。
本当に、地球全体に警鐘を鳴らし続けて物語を書かれた方なんだなあ。

p38
「…略…本来、老人たちは、子どもの顔さえ見れば、健全な本能をもっているかぎりは、オレンジ色の愛情光線を発しなければならないせんぱいたちであるのに、反対に、おそろしいにくしみの憎悪光線をあびせかけている。これこそ、生物の末期的症状なんですね。年よりが幼少のものをにくみ、子どもはおとなをにくむ。こうなっては、どんな強力な動物もほろぶしかありません。
 生活がゆたかになり、ぜいたくになり、わがままになれ、おとなに奉仕されることをとうぜんと感じる子どもがふえると、おとなのほうも、かれらを毛ぎらいするようになります。子どもは自分の親以外のおとな社会から、つねに憎悪光線をあびせられる結果、子どももおとな社会にむけて、それを反射していきます。戦争、核兵器、環境ホルモン、地球温暖化、酸性雨、オゾン層破壊などの外的な危険は、知性によって回避できます。しかし、本能的に生きることをいやがる反生活光線にみちた社会になれば、だれも、生きつづけることをのぞまなくなります。若者は結婚をのぞまず、女性は出産をいやがり、精子も卵子もしぜんに衰弱します。人間が地球からきえる年代について、われわれは、その予想をもっと早めに習性しなければなりません。それは、あの青ころりのときと同じことです。ある日とつぜん起こって、雪だるま式に加速していきます。…略…」

女性の立場から言えば、産みづらい育てづらい社会の問題も大きいと思うけれどね、と言いたい部分もありますが。社会全体で、心の余裕がなくなっているのは確か。
満員電車で乳母車……あ、ベビーカーだ。そういえば最近、乳母車って言わないね、乳母という存在がほとんどなくなったからか。閑話休題、ベビーカーをたたまずに車内に乗り込んだり、車椅子の方がレストランで断られたりという話があるけれども。あれについて、へえって考察を読んで。
海外では、ベビーカーも車椅子も、駅員やレストラン店員の手を借りない。周囲の人にヘルプを求めれば、みんなが手伝ってくれるから、それが当たり前で、特別の設備を必要としないんだ。みんながかえって気遣うんだ。それが出来ない日本は何が違うんだろうって分析したら、電車の混み具合が違うと。日本の電車の混み具合は海外の数倍で、というグラフを出していて、自分がこんな状態だと心の余裕がなくなる。そういう生活だから、日常でも心の余裕がなくなる、だからやさしく出来ないんだと。
なるほどねえって思った。
満員電車で、音楽を聞いたり読書に没頭したりゲームに集中する理由について、こんな考察も読んだことがある。本来ならばプライベートエリアとして人間が認識している領域を侵し侵されて、ものすごいストレスを感じている。だから、それを軽減、あるいは無視する努力として、よそに意識を集中するのだと。
つまり、電車だけではなく、住宅事情や、学校や職場やら、日本は狹い国土に多数の人口がいて、団塊世代だとかどんどん人口が増えて、個々人の余裕なんて考えないできたから、こうなってしまったんだろうなあって。
フランスやドイツ、イギリスの人口が大ざっぱに各4千万人くらいに対して、日本は一億二千万人でしょ。住宅事情もあれなら、そりゃ、余裕もなくなるよねえ……


福永さんのすばらしいところは、こんな難しい悲しい現実をわかりやすく伝えながら、やはり話がおもしろいところ。美しい詩と、軽妙な戯れ歌や、お祭り歌や、ダジャレがあちこちに同居して散りばめられているんだもの。

アラエッサとキジのケンちゃんのやり取りは軽妙でおもしろい。
p69
「…略…ぼくも、お出むかえの準備にかからなきゃ。」
「真田舎村入口のバス停だったな。」
「はい。バス停の額の上で、ポーズをとってますから。」
「できるだけ目だつ、はでなやつをたのむ。」
「ウェディングドレスでも着ましょう。」

バス停の上でポーズ、で、もう笑ってしまったけれど。はでなやつと言われて、ウェディングドレスとは! しかもこのケンちゃん、冗談かと思ったら、
「シルクハットに黒い礼服という出で立ちで、万国旗の下、つばさを広げて仁王立ちになると」
なんて恰好してる(笑)

草深い田舎村に、ルカとモニカのふたりの大臣を呼ぶから、とにかく車道作っとけってアラエッサに言われて、ケンちゃん鎌買って草刈って。
「草深高速一号線です」
ってススキの間にかろうじて道つけて、自転車飛ばしちゃうんだからね。洒落がきいてていいわー


ケンちゃんを田舎村の開発責任者に据えたはいいけど、まったく開発が進まなくて、カメレオン総理が心配している。
ルカはその監視を兼ねていたんだけれど、ケンちゃんが「田んぼを作るには田の神さまをお招きしないといけない。神さまだから、お金で買うってわけにはいかない。神主さん呼んで盛大にお招きして……そのためにお金がいる」なんて、話をルカにすると、ルカもケンちゃんがきちんと仕事をしているの知って見直す。
こういうやり取りが何回か出てきて、ケンちゃんが田舎村のために尽くす姿勢がよくて……つねにつねに、考えているんだよねえ。
「田の神さまがいない田んぼはダメだ。稲が育っても、何か災いがきて駄目になる。嵐とか」
みたいなことを言えば、何が違うんだ、そんなの迷信だって言われたら
「なんか、あったかいんですよ」
って言って、迷信だと文句を言う人は置き去りにしてしまったり。
ケンちゃん、いい男だ。アラエッサもいい男だけれど、ケンちゃんもばっちり決めてくる。



三日月様って『春の小川』のときには、壮年期でわがままいっぱいだったと思うけれど、いつの間にかおじいちゃんになっていて、びっくりだ。相変わらず、かくれ雲は使っているのか(笑)

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 児童書
感想投稿日 : 2013年6月1日
読了日 : 2013年6月1日
本棚登録日 : 2013年6月1日

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