江戸の歴史は大正時代にねじ曲げられた サムライと庶民365日の真実 (講談社+α新書)

著者 :
  • 講談社 (2008年1月24日発売)
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チェック項目18箇所。明治政府は「反逆」「反抗」「革命」「無頼」「刀」「剣戟」などを過敏といえるほど嫌い、禁圧しました、三百年近い徳川幕府を倒して明治維新政権を樹立したのですが、それだけに「反逆」「反抗」「革命」「無頼」「刀」の力を恐れました、武士の行動原理と文化を極端に否定したのです。明治4年(1871)には「散髪脱刀令」を発して、髷を落とし、帯刀の習慣をなくそうと試みています、また明治9年(1876)には「廃刀令」を公布して、軍人、警官以外の帯刀を全面禁止しました。明治の後半まで「江戸の世が懐かしい」とでもいえば、危険思想の持ち主とされたのです、時代小説、時代劇が作られる頃は、明治生まれの人々の世になっていました。武家は一人で歩くことはなく、必ず中間に挟箱を担がせるなどして、従者を連れていた、町人は将軍、御三家、御三卿ぐらいには土下座をしたが、それ以外は、道の左右に避けて済ませた、武家が上司と出会ったときは、小走りにより、地面に片膝を付けて挨拶した。庄司甚内は公許の遊郭設置が必要な理由を①家業を怠り浪費する者を、遊女は何日はも泊める、②遊女の家は、浪人その他の不穏分子の溜まり場になる、③人身売買、誘拐など不埒な遊女稼業の者がいる。地獄……「地女の極上」の略である、地女とは、遊女に対して素人の町屋の女の意味で、御家人の妻の身分を隠して、裏長屋を借りた「地獄宿」に通って「つゆ稼ぎ」をしたのだろう、地女の極上だから、それなりの値段がしたに違いない、家主の監視を潜っての地獄宿も、そうとう危険な商売であった。女性の晴れ着は、基本的に畳みの上で艶やかに見えるようにデザインされていた、そのため室内ではひときわ生彩を放つので、インテリアになり得た。江戸時代の人々の性感覚は、今日からは想像するのが難しい、男にとっては妻は子孫を残す相手であり、恋愛は遊女を相手にする遊びだった、江戸時代の中期後半までは、性は子孫繁栄と遊びに峻別されていたのである、妻への義理さえ立てば、妻は悋気(嫉妬)はしない、朝帰りと妾は男の甲斐性の時代である。夜鷹(ヨタカ)……夜になると仮小屋を作ったり、川の土手や橋の下などで体を売った遊女、船饅頭……江戸は水路が巡らされた水の都市、船の中で売春をする女性のこと。家主は、三年燃えなければ元が取れる安普請(粗雑な作り)にしたので、この建築感覚が後々まで地震大国日本に大きな被害をもたらすことにもなった。年表を見ると大火は、景気低迷の時代に起きている。「生類憐れみの令」の意外な効果……人間も生類に含まれていて、「捨て子捨て病人」を禁止した、道中保護令も出て瀕死の旅人の救護も命じられたが、それまでは知らぬふりをされていた、「人や動物を殺す」「人や動物が死ぬ」ことを何とも思わない風潮を止めたのが「生類憐みの令」である。尾張藩……「生類憐れみの令」の15年前には9歳の林徳之助が2歳年上の川口三平を斬り、自分は自害した、9歳と11歳の殺し合いである、翌年は14歳の少年が斬り合って、互いに絶命するまで戦っている。時代劇で「面を上げぃ」というが、将軍はもとより上位の人の前では相手の顔を見ないのが作法だ、そのせいで近代になっても日本人は、相手の目を見て話さなかったという。学問が道楽か実学か区別のつかないところが江戸の時代を支えた、ところが時代が下るほど、武士は道楽として学問を楽しむ人が少なくなる、出世のための学問の時代である。「秘事作法」によれば、御殿女中には、幼君の性器を鍛える任務があった。凧揚げには天と人とを繋ぐ意味があり、将軍の凧揚げも天上と天下をを繋ぐ絆を再確認する行事だった。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 歴史
感想投稿日 : 2013年1月15日
読了日 : 2013年1月10日
本棚登録日 : 2013年1月10日

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