女はなぜ土俵にあがれないのか (幻冬舎新書 う 1-1)

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  • 幻冬舎 (2006年11月1日発売)
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チェック項目14箇所。実生活の差別、不平等、人権侵害には断固反対するが、芸能、祭事、文化、儀礼等においては、守ってきた形態を今の時代に合わせて変える必要はないと考える。「土俵は俵で決壊された異空間である。結界内においては、結界内のルールがある。それは結界外の一般社会の法律やルールや風潮とは一致しない場合も多々あるが、差別とは別次元の話であろうと私自身は考えている」。相撲が「国技」になったのは1909年のことである、まだ100年もたっていない。「大相撲」は料金を取って客に見せるものであり、近年に生まれた興行である、一方の「相撲」は『日本書紀』などの文献にも出ている通り、起源とされる頃からのものである。武家時代には、信長、秀吉をはじめとして、相撲好きの大名は数多く、強い相撲人たちは高い禄で大名に召しかかえられた。「醜」には「醜い」という意味があり、人間が神に向かいあう上でへりくだりをしめしたとされる。そこには「改まる」という姿勢が感じられる、まだ土俵はないが、四本柱によって結界された区域は「改まってからあがるべき聖域」であることが、醜名のそんざいによっても浮かびあがる、その点からも、「四股名」ではなく、神に対してへりくだった「醜名」が正しいということがわかろう。当初、横綱とは、吉田司家が免許を出した「資格」の名称であり、最高の「地位」ではなかった、最高の「地位」になったのは、1909年のことである、初代から3代までの横綱が実在したか否か明確ではなく、確かに実在した横綱は第4代の谷風梶之助からではないかという説が根強い、谷風は1789年に横綱免許を得ている。いつから土俵に塩をまくようになったのか、これも定かではない、おそらく「清めの塩」はあ己の心身を清めるより、土俵を清める意味あいが大きいのではないか。「土俵は神が宿る場所だという意識はあります、。機械を使わないのは、神がいる場所だからでしょう」。神を土俵に迎える儀式は、18世紀半ば以降に始まったと言われている。相撲界では神送りを、1957年限りに中止していた、その頃は胴上げされるのは勝負審判の親方であったそうだが、昭和32年に胴上げで親方を落としてしまい、以来、やめていた、ところが迎えた神は送らねばならないという声が、協会の中でも大きくなり、2003年5月場所から復活した。なぜ、女性は土俵にあがってはならないのか、それは、「土俵は俵で結界された聖域」だからである、私はそう結論づけた、つまり、過去、女性は障害物として見られて、結界内に入ることができなかった、それが今に伝わっており、土俵は女人禁制なのである。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 歴史
感想投稿日 : 2013年1月26日
読了日 : 2013年1月11日
本棚登録日 : 2013年1月11日

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