日本近代文学の起源 (講談社文芸文庫 かB 1)

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  • 講談社 (1988年6月1日発売)
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「文学書を読んで文学の如何なるものなるかを知らんとするは血を以て血を洗ふが如き手段たるを信じたればなり。余は心理的に、(中略)、社会的に文学は如何なる必要あって存在し、隆興し、衰滅するかを極めんと考えり」(夏目漱石)

「モナリザは、(絵画における)風景から疎外された最初の人物である。彼女の背景にある風景は、風景であるが故に風景として描かれた、最初の風景である。それは純粋な風景であって、人間の行為のたんなる背景ではない。それは中世の人間たちが知らなかったような自然、それ自身のなかに自足してある外的自然である」(ファン・デル・ベルク)

「風景が画家に提供する興味は、かくのごとく、だんだんに変遷してきたのである。すなわち、初めは画の主題の補助物として、主題に従属せしめられていたものが、次に、妖精でも住んでいそうな、幻想的な新天地を表現することとなり、最後に来たのが印象の勝利であって、素材或は光が、すべてを支配するようになった」
「私が絵画について述べたことは、全く驚くべき的確さを以て文学にも当嵌まるのである。すなわち文学の、描写というものによる侵略」(ポール・ヴァレリー)

「この新しい時代(近代)は、すべての実在をそれぞれ”内的経験”と”外的世界”、主観と客観、個人的実在と公共的真理とに二分する強力で革命的な創造的観念を、手中に入れた」(S.K.ランガー)

「風景がいったん成立すると、その起源は忘れ去られる。それは、はじめから外的に存在する客観物のようにみえる。ところが、客観物(オブジェクト)なるものは、むしろ風景のなかで成立したのである。主観あるいは自己(セルフ)もまた同様である。主観(主体)・客観(客体)という認識論的な場は、「風景」において成立したのである。つまりはじめからあるのではなく、「風景」のなかで派生してきたのだ」
「山水画家が松林を描くとき、まさに松林という概念(意味されるもの)を描くのであって、実在の松林ではない。実在の松林が対象として見えてくるためには、この超越論的な「場」が転倒されなければならない。遠近法がそこにあらわれる。厳密にいえば、遠近法とはすでに遠近法的転倒として出現したのである」
「たとえば、シクロフスキーは、リアリズムの本質は非親和化にあるという。つまり、見なれているために実は見ていないものを見させることである。(中略)リアリズムとは、たんに風景を描くのではなく、つねに風景を創出しなければならない。それまで事実としてあったにもかかわらず、だれもみていなかった風景を存在させるのだ」
「つまり内的なセルフ(自己)の優位のなかではじめて写実(リアリズム)が写実として可能だということである。」
「そうだとすれば、ロマン派とリアリズムを機能的に対立させることは無意味である」(柄谷行人)

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カテゴリ: ひひょう/がくもんのほん
感想投稿日 : 2009年1月23日
本棚登録日 : 2009年1月23日

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