(01)
胆力を感じる。
内臓というモチーフがある。人間に厄介にも備わるこの内的器官は、本書のなかでのちに、性、裸体とモード、また精神外科といった内臓のコンテクストともいうべき周囲の事態にまで展開していく。が、当面は、プロローグの柳田国男の例の事件現場として「家の口」が開かれ、第1章「白の家」の黒い戸へと読者は導かれ内臓への探索がはじまる。「奥さん」が「ナンド」と連結され、ここからインドネシアの「生きている家」の内部の三層構成に出会う。ここで読者は、著者が本書で日本列島の家屋や家族のみを対象とした課題に取り組んでいるわけではないことを知る。
途中、もちろん、白井晟一の便に関するちょっと可笑しなエピソードや上野千鶴子氏の鋭い舌鋒にも応接することになり、エピローグでは池袋での建築的な実践に出口を見出すことになるが、柳田の家の入口からこの池袋の庭の出口まで、ワールドな世界の(あるいは世界性の)近代と、そこにあった絶望的なまでの家と家族に、重く暗く対峙しなければならない。
(02)
本書の時間軸としてはもっとも未来的な、フォード歴が採用されたハクスレーの「すばらしい新世界」では、エンゲルスの性愛ユートピアやハワードの田園都市の先にある都市の姿が上空から俯瞰される。しかし、本書の切迫さ、あるいは魂がシェイクされ身を切られるような切実さは、遠い事象たちへの俯瞰によってえられるものではない。
登場する家族たち、ナンドの奥さん、機織の鶴、三びきの子ブタ、水着姿のアドルフ・ロースと詩人とダンサー、ヴィクトリア朝のプロレタリアート、γδυなどの各階級の人間、新大陸のコミューンのファミリーやウッドストックのヒッピーたち、キングズレイ・ホールの居住者と滞在者たちは、とりもなおさず私たちの隣人たちであり、その家族たちへの視線は、憑依的でもあり、当事者的でもあり、家という機械の内部からのドメスティックな視線や身体からの記述によって、近代と家族の課題に肉迫している。
回路というユニークな言い回しが、腑に落ちるのもそのためかもしれない。
(03)
とはいえ、希望がないではない。少なくとも、本書は近代と家族とのありように触れ、その感触を記録している。この感触は、読者のたちの世界にも歴としてある。家は、象徴でも機能でもあるが、わたしたちが未来を改造できる可能性と可能性の範囲にあるかたちのことを、「家」というのかもしれないと感じた。とすれば、本書は、その可能の範囲を手探りで示している。
- 感想投稿日 : 2019年2月3日
- 読了日 : 2019年2月3日
- 本棚登録日 : 2019年2月3日
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