地方でサブカル趣味をこじらせた少女が、やがて上京し、大学生活を送り、(なぜか)エロ本編集者、AVライターなどを経て、全身傷だらけになりながら、自己にかけられた呪いから自由になっていくプロセスを記述している。
正直に言って、男の僕には、この本についてわかったような感想を書くことはできない。それらしい分析的なことは言えるだろうが、しかしそんなことでは、自分の内臓をひっくり返して、血まみれになりながら、同時にそれを笑い飛ばすような、この本へのレビューとしては、何も言っていないのと同じである。読むもの(男)の安易な言葉を摘み取る、それだけの破壊力に満ちた文章である。
ところで、この本における「女にかけられた呪い」の正体は、「男目線の内面化」であり、雨宮はAV業界やライター業における女性の立ち位置を通して、それについて考察している。
これについて僕が考えたのは、昨今流行っている(ヒップホップの)フリースタイルバトルである。そこでは、男性ラッパーが主役となって、自分がいかにクールであるかを競うわけだが、それは別の言い方をすれば「どちらが男前であるか」を競うゲームでもある。だから、女性ラッパーがそこに参加した際の立ち位置は、簡単に定まらない。どのように振る舞ったとしても、フィメールラッパーは見た目をdisられたり、「男に媚びている」と言われたりするし、フィメールラッパー同士で対戦する際に「クソマンコ」と(男の視点を内面化した)disを展開したりする(もちろんすべてがそうではないが)
そこには、圧倒的に男性に有利になったヒップホップの価値観の中で、「自分らしくある」ための視点が持ちづらいというジレンマがあるのだが、これは雨宮が自己の立場をどのように規定して物を書いたりすればよいか、葛藤してきたことと同様のテーマを持っているのではないかと思う。
というか、そうした男視点に満ち満ちているのがこの社会であるということなのだろう。
本書で文庫版の解説を書いているのは、フェミニズム、ジェンダー論の権威である東京大学の上野千鶴子だが、そこでは、昨今注目を浴びるジェンダー関連のライターである田房永子や鈴木涼美、ジェーン・スーや湯山玲子などにも言及しながら、「こじらせ女子の当事者研究」についての考察を展開しており、本編との相性がとても良く、読み応えがあった。
- 感想投稿日 : 2017年9月28日
- 読了日 : 2017年7月31日
- 本棚登録日 : 2017年7月31日
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