五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後

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  • 集英社 (2015年12月15日発売)
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【感想】
1938年の日中戦争の最中、関東軍が支配していた満州国に「満州建国大学」が建校された。大学の特徴はなんと「言論の自由」。戦時下でありながら、日本、朝鮮、中国、モンゴル、ロシアから若者たちが集められ、資本主義、社会主義、民主主義、共産主義、帝国主義といったあらゆる分野を分け隔てなく学び、学内では日本政府の批判が許されていた。すべては「五族協和」、すなわち五つの民族が共に手を取り合いながら、新しい国を作っていくために……。

本書は、日本初の国際大学とも考えられている「満州建国大学」を紐解いていく書である。前半は文献をもとに設立の経緯と大学の理念を、後半は実際の卒業生へのインタビューをもとに当時の生活を解き明かしていくという構成になっている。

設立の経緯と理念に関しては、当時の書物によりはっきりとした記述が残っている。端的に言えば、「戦争後の世界において、国を一から作れるだけの人材の育成を目指した」というものである。

石原莞爾が1937年春頃、満州国の首都・新京に新設される最高学府の東京創設事務所を訪れ、次のような意見を述べたとされている。
①建国精神、民族協和を中心とすること
②日本の既成の大学の真似をしないこと
③各民族の学生が共に学び、食事をし、各民族語でケンカができるようにすること
④学生は満州国内だけでなく、広く中国本土、インド、東南アジアからも募集すること
⑤思想を学び、批判し、克服すべき研究素材として、各地の先覚者、民族革命家を招聘すること
当時、満州事変を主導した石原が脳裏に思い描いていたものは、目先の満州や中国との戦争などではなく、やがて到来するだろうアメリカとの「最終戦争」を勝ち抜けるだけの強固な東亜連盟の結成だった。ゆえに彼は満州国に新設される最高学府にこそ、その核となるべく人材育成の機能をなんとしても付与したいと考えていたのだ。

以上が経緯と理念だが、一方で実際の学校生活となると、あまり詳細に語られていない。それは日本の敗戦によって、統治中の満州国に関する文献のほとんどが棄てられてしまったからだ。そのため筆者は卒業生へのインタビューによって当時の生活を解明しようと試みるのだが、これも難航している。それは取材対象者のほとんどが85歳以上の超高齢者であり、証言が食い違ったり勘違いしたりしている部分が多かったからだ。本書は公表されている資料などをもとに複数の建国大学出身者に確認を取り、裏が取れたものだけを文章にしている。それゆえこの本には載せられなかったインタビューも相当にあるとのことだ。そこにも貴重な証言が埋もれているに違いないが、こればかりは仕方のないことであり、本当に惜しい気持ちでいっぱいだ。

本書の終盤で、京都大学人文科学研究所教授の山室信一は次のように述べている。
「それがようやく今になって、いくつかの証言が得られるようになってきました。今、メディアが必死になってかつての戦争経験者にマイクを向けていますが、あれは理にかなっているんです。人は亡くなる前に何かを残そうとする。自らの生きた証をこのまま歴史の闇に葬ってしまいたくないと。彼らは今、必死に残したがっているんです」

今、「満州国の情報の希少性」が、世間一般にも当事者たちにも再認識されてきている。このままではあと10年もすれば、当時の学校生活を知る者はいなくなってしまう。歴史の闇に葬り去られる前に、何とか情報を残してほしい、そう強く思った。

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【まとめ】
1 満州建国大学
満州建国大学は、満州国が当時国是として掲げていた「五族協和」の実践を理念としていた。満州国には当時、漢民族、満州族、朝鮮族、モンゴル族などの民族がモザイクのように入り交じって暮らしていた。日本政府は満州国建国の早い時期から、総人口のわずか2%にすぎない日本人が圧倒的多数の異民族を支配することは極めて困難だと判断し、結果、国の実権は事実上すべて握りながらも、「五つの民族が共に手を取り合いながら、新しい国を作り上げよう」という「五族協和」のスローガンを意図的かつ戦略的に国内外へと掲げたのである。

五族協和を実践するためには、異なる生活習慣や歴史認識の違いだけでなく、互いの内面下にある感情さえをも正しく理解する必要があるとして、建国大学は開学当初から中国人学生や朝鮮人学生を含むすべての学生に言論の自由を認めていた。その特権は彼らのなかに独自の文化を生み出した。塾内では毎晩のように言論の自由が保障された「座談会」が開催され、朝鮮人学生や中国人学生たちとの議論のなかで、日本政府に対する激しい非難が連日起こった。

石原莞爾が1937年春頃、満州国の首都・新京に新設される最高学府の東京創設事務所を訪れ、次のような意見を述べたとされている。
①建国精神、民族協和を中心とすること
②日本の既成の大学の真似をしないこと
③各民族の学生が共に学び、食事をし、各民族語でケンカができるようにすること
④学生は満州国内だけでなく、広く中国本土、インド、東南アジアからも募集すること
⑤思想を学び、批判し、克服すべき研究素材として、各地の先覚者、民族革命家を招聘すること

当時、満州事変を主導した石原が脳裏に思い描いていたものは、目先の満州や中国との戦争などではなく、やがて到来するだろうアメリカとの「最終戦争」を勝ち抜けるだけの強固な東亜連盟の結成だった。ゆえに彼は満州国に新設される最高学府にこそ、その核となるべく人材育成の機能をなんとしても付与したいと考えていたのだ。


2 日本人卒業生
戦後、西日本新聞に入り、ケネディ米大統領の暗殺時にはワシントン支局長を務めた先川祐次(一期生)は当時の塾生活を次のように振り返っている。
「実質的指導者だった作田荘一副総長の教えは 『人の生涯は信念と思想、行動を一貫して働くものである』ということでした。大学ではこの教えを実践するため、塾生活にも一切の規則がなく、指導教官も学生の相談には応じるものの、干渉はしない。すべてが塾生たちの自律に委ねられていました」

日本が降伏した後、一期生の百々和は敗戦に伴う投降を行ったが、それがうまくいかなかった。
当時、中国大陸における日本軍の投降先は蒋介石系の国民党軍に限定されていた。ところが、山西省を掌握している国民党軍はその頃、太原やその周辺で中国共産党軍との激しい戦闘に明け暮れていた。国民党軍の司令官は日本軍から来る投降兵を「捕虜」としてではなく、自軍の「兵士」として組み入れることができないかと思いつく。これにより、百々をはじめとする約一万人もの日本兵が敗戦後も「鉄道修理工作隊」などとして中国大陸に留まることになってしまった。俗に言う「山西省旧日本軍残留問題」である。
彼等は中国に残された日本人を祖国に返すためのしんがりとして戦いを続けるが、一年以上経ち、多くの日本人が日本へと帰還し終えると、「同胞を祖国に帰すための戦い」という大義名分は通用しなくなった。

百々は戦場でどんなに悲惨な光景を目にしたとしても、それらの「論理」を素直に受け入れることがどうしてもできなかった。百々にとって、論理や倫理というものは唯一、人が人であり続けるための根幹とも言えるべきもののはずだった。それが状況によって解釈が入れ替わり、あらゆる行為が許容されてしまうのだとすれば、人は進むべき道を見失い、やがて根底から崩れ去ってしまう。
百々は中国から帰還する直前の裁判において、弁明も釈明もしなかった。百々は語る。「私はそれを潔さと考えていたから。(中略)あの頃の日本人にとっては『潔さ』とは『美しさ』とそれほど変わらない意味だった。そして『美しく』あることは、『生きる』ことよりも、遥かに尊いことだった」


3 中国人卒業生
建国大学で学んだ学生たちは戦後、その大学が有していた特殊性を理由に自国で激しく迫害され、弾圧された。あるものは逮捕され、あるものは拷問を受け、あるものは過酷な強制労働を強いられた。

現在中国に在住している建国大学OBへのインタビューは、当局の取り締まりにより幾度となくキャンセルされた。戦争や内戦を幾度も繰り返してきた中国政府はたぶん、「記録したものだけが記憶される」という言葉の真意をほかのどの国の政府よりも知り抜いている。記録されなければ記憶されない。その一方で、一度記録にさえ残してしまえば、後に「事実」としていかようにも使うことができる。共産党を脅かすものは些細なものでも許さない。そのきっかけはもちろん、建国大学で保証されていた「言論の自由」なのだ。


4 韓国
中国やモンゴルでは、建国大学に通っていた非日系の学生たちの多くが戦後、「日本帝国主義への協力者」とみなされ、自国の政府などから厳しい糾弾や弾圧を受けていた。しかし、韓国では優れた頭脳を有する建国大学の出身者たちを積極的に登用し、いち早く国の基礎を築こうとしたといわれている。彼らは優れた語学力や国際感覚を身につけていただけでなく、当時国家が最も欲していた軍事の知識を習得していたからである。1970年代や80年代には政府や軍、警察、大学、主要銀行などにおける多くの主要ポストを建国大学出身者が握っていた。

「若いということは、実に価値のあることなんですよ」。新制三期生の姜英勲は言う。

「満州国は日本政府が提造した紛れもない傀儡国家でしたが、建国大学で学んだ学生たちは真剣にそこで五族協和の実現を目指そうとしていた。みんな若くて、本当に取っ組み合いながら真剣に議論をした。日本人学生たちはいかに日本が満州をリードして五族協和を成功させるのかについて熱くなっていたような気がします。中国人学生は、満州はもともと中国のものなのに、なぜ日本が中心となって満州国を作るのか、という批判が常に先に立っていました。その点、朝鮮人学生たちは最も純真な意味で、五族協和を目指していたと言えるのかもしれません。それでも、簡単に『和解できる』という点だけをとっても、若さはやはり素晴らしいものだ」


5 建国大学の意義
京都大学人文科学研究所教授の山室信一は言う。
「私たちはもっと正しくかつての 『日本』の姿を知る必要があるのではないかということです。日本や日本人はどうしても自国の近代史を 『日本列島の近代史』として捉えがちです。1895年以降、日本は台湾を領有し、朝鮮を併合し、満州などを支配した。それらが一体となって構成されていたのが近代の日本の姿だったのに、日本人は戦後、日本列島だけの 『日本列島史』に執着するあまり、植民地に対する反省や総括をこれまで十分にしてこなかった。日本人の植民地認識は近代の日本認識におけるある種の忘れ物なんです。そして、そんな 『日本』という特殊な国の歴史のなかで、台湾朝鮮、満州という問題が極度に集約されていたのが建国大学という教育機関だった、というのが私の認識であり、位置づけでもあります」
「日本が過去の歴史を正しく把握することができなかった理由の一つに、多くの当事者たちがこれまで公の場で思うように発言できなかったという事実があります。終戦直後から1980年代にかけて、満州における加害的な事実が洪水のように報道されたことにより、建大生を含めたかつての当事者たちは長年沈黙せざるを得ない状況に追い込まれてしまった。もっと当事者たちの声が聞かれていたら、満州国への認識なんかも変わったのではないかなと私は今思っています。もっとバランスの取れた歴史認識ができたんじゃないかと。それがようやく今になって、いくつかの証言が得られるようになってきました。今、メディアが必死になってかつての戦争経験者にマイクを向けていますが、あれは理にかなっているんです。人は亡くなる前に何かを残そうとする。自らの生きた証をこのまま歴史の闇に葬ってしまいたくないと。彼らは今、必死に残したがっているんです」

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
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感想投稿日 : 2022年4月24日
読了日 : 2022年4月16日
本棚登録日 : 2022年4月16日

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