実力も運のうち 能力主義は正義か?

制作 : 本田由紀 
  • 早川書房 (2021年4月14日発売)
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【感想】
トランプ当選後、彼を支持していた白人労働者にキャスターがインタビューを行っていた。
テレビカメラを前に興奮気味に話す彼に投げかけられた、「何故トランプに投票したのか?」という質問への答えが、私の中で強く印象に残っている。

「トランプだけが、俺たちの話を聞いてくれる」

その言葉は、分断の原因をこの上なく端的に説明してくれていた。

現代社会の根幹を成す学歴主義――勉強さえしっかりすれば誰でも成功できるという信仰――が、実のところ富める者をさらに裕福にしているだけだということは、今や広く知られる事実である。
しかし、かといって全ての大学入試をくじ引きで行うわけにもいかない。万人が平等の所得を得られるよう、ランダムに職業を割り当てるわけにもいかない。

民主主義社会においては一定の能力主義と格差はつきものなのだ。

では、能力主義のどこが不公平なのだろうか。
それは、能力主義によって格差が生まれることではなく、能力主義世界にいるにもかかわらず、階層間を上がるための努力を重ねても状況が好転しないことにあるのだ。そして、成功者たちが「努力」という曖昧な概念を紋切型に当てはめて、「努力をしたけれども這い上がれなかったのは、努力の量が足りていないからだ」と、各人の事情も知らずに切り捨てることにあるのだ。

努力という言葉は、確かに甘い響きを持っている。
しかし、よく考えてみれば、努力とはなんとも抽象的で胡散臭い概念ではないだろうか?

「才能」と「努力」というのは、本来であれば複雑に絡み合っており、簡単に切り離せるものではない。優秀な成績を収めた者にとっては、どちらが優位に働いたかというのは分からないままだ。
ただし、「敗者が負けた原因」を論じる際には容易に分離できる。「お前が失敗したのは努力が足りなかったからだ」と、簡単に切って捨てることが可能になるのだ。

とすると、「才能」と「努力」をめぐる議論が紛糾し、能力主義を擁護するのに役に立ちそうにない理由というのは、強者側がこの言葉を、自分に都合のよい文脈で恣意的に使っている点にあるのではないだろうか。言いかえれば、自説を補強するためだけに言葉を悪用しておきながら、敗者側の言い分を聞きもせず上から抑えつけていることにあるのではないだろうか。

歴史を紐解くと、こうした「都合のよい言葉」の数々が、労働者に不信感を与え続けてきた。
グローバリゼーションでは、労働環境の複雑化に伴って果たすべきだった「国内労働者の権利保護」を政府が放棄し、「より能力の高い働き手になろう」という言葉で、ツケを労働者側に押し付けていることをごまかしていた。
また、リーマンショックで銀行に救済措置を行ったときの「規模が大きすぎて潰せない。公的資金を注入せざるを得ない」という言い訳は、それほどまでに脆弱化したシステムにメスを入れずに放置してしまった政府の責任を、債務者のリテラシー不足とすり替えてしまった。

結局のところ、エリート層と政府は、労働者の話など聞かず、自分に都合のいい文脈で言葉をすり替え続けていたのだ。

こうした積み重ねが労働者の怒りを買い、トランプを勝利に導いた。
彼らにとって「話を聞いてくれる人」は、今までどこにも存在しなかったのだ。

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【本書の概要】
能力主義的な信念は、連帯をほとんど不可能なプロジェクトにしてしまう。われわれはどれほど頑張ったにしても、自分だけの力で身を立て、生きているのではないこと、才能を認めてくれる社会に生まれたのは幸運のおかげで、自分の手柄ではないことを認めなくてはならない。

消費者的共通善ではなく市民的共通善が、機会の平等ではなく条件の平等が必要だ。

サンデルの主張は次のとおり:大学入試については、社会階層別アファーマティブ・アクションと適格者のくじ引きによる合否決定を行う。また、名門大学における道徳・市民教育を拡大する。労働や福祉については、賃金補助と消費・富・金融取引への課税を行う。
これを通じて、社会的に評価される仕事の能力を身に着けて発揮し、広く行き渡った学びの文化を共有し、仲間の市民と公共の問題について熟議する社会のあり方を目指す。


【本書のまとめ】
1 能力への入札
勝者は自らの才能と努力によって成功を勝ち取ったと信じたがる。裏を返せば、失敗すれば、その責めを負うのは自分だけなのだと信じ込んでしまっている。
この考えが市民感情を蝕んでいる。自分のことは自分で作り上げるという考えが強くなるほど、感謝の気持ちや謙虚さを身につけるのはますます難しくなるからだ。


2 勝者と敗者
労働者階級と中流階級の多くの有権者がエリートに感じている怒りを駆り立ててきたものはなんだろうか。それは不平等自体よりも、その裏にひそむものであった。
不平等の拡大を受け、主流派の政党と政治家は、労働者の再教育や人種・ジェンダーの壁を取り除くことで対処してきた。これは「機会のレトリック」であり、そのレトリックを支える考えは、「機会を与えさえすればみな努力する」「やればできる」というものだった。
そのレトリックはもはや破綻している。現代の経済においては、生まれによる格差が機会の平等を凌駕している。貧しい親のもとに生まれた人は大人になっても貧しいままなのだ。

そしてなにより、例え完全な能力主義が実現したとしても、正義にかなう社会となるかどうかは疑わしい。自分の才能のおかげで成功を収める人々は、同じように努力していながら、市場がたまたま高く評価してくれる才能に恵まれていない人々よりも、多くの報酬を受けるに値するのだろうか?

能力主義的なおごりは、勝者の次のような傾向を反映している。すなわち、彼らは自らの成功の空気を深く吸い込みすぎ、成功へと至る途中で助けとなってくれた幸運を忘れてしまうのだ。
同時に、能力主義は敗者に屈辱を与える。能力主義社会の中で低い地位にあることは、100%自己責任として勝者から見下されることになる。
トランプを代表するナショナリズム政治に勝利をもたらしたのは、この屈辱が復讐心に転化して人々を動かしたからなのだ。


3 「能力の道徳」の歴史
かつてのカルヴァンやピューリタンにとって、神の目から見れば誰もが同じように卑しい存在であった。誰もが報いを受けるに値しないのだから、救済は神の恩寵にすがるしかなかった。
しかし、リベラル化した神学者が自らを救う人間の能力を強調し始めると、成功は個人の能力と摂理による予定の収斂を意味するようになった。信仰が経済的不平等を宗教的に承認する手段となったのだ。 
「繁栄の福音」という言葉がある。「神は信仰に対して富と健康をもって報いる」とする考えのことだ。
この言葉は裏を返せば、世に起こるあらゆることは、われわれの生き方への報酬あるいは罰である――われわれの偉大さは善良さに由来し、今苦しんでいるものはそうしなかった罰が下っている――という考え方なのだ。


4 出世のレトリック
能力主義の専制を打破するということは、能力を考慮せずに仕事や社会的役割を分配すべきだという意味ではない。そうではなく、成功についてわれわれが抱く概念を再考し、頂点にいる者は自力でそこに登りつめたのだとするうぬぼれに疑問を呈しなければならないのだ。

能力主義にとって成功は美徳だ。われわれは自分の運命に責任があり、わたし自身の価値は自力で手に入れたものに値しているという考えが強まっている。頂点を占める人々も底辺に甘んじる人々も、自分のいるべき場所に立っているという風潮がある。
加えて、機会に対する不公平な障壁を取り除きさえすれば、誰もが才能と努力の度合いによって自分の居るべき場所に到達するはずだという考えも一般的になっている。同様の理論は「能力」の観点のみならず「責任」の観点にも適用されている。
これが出世のレトリックであり、オバマまでの米国大統領が揃って口にした概念である。

しかし、能力主義エリートは次の点に気づかなかった。それは、底辺から浮かび上がれなかったり、沈まないようもがいている人々にとって、出世のレトリックは将来を約束するどころか自分たちをあざ笑うものだったという事実だ。

能力の専制の土台には一連の態度と環境があり、それらが一つにまとまって、能力主義を有害なものにしてしまった。次の3つが具体的な害だ。
①自己責任論が人々の連帯を蝕んだ。
②大学の学位の過度な尊重が学歴偏重の偏見を生み出し、大学に行かなかった人々を貶めた。
③社会的・政治的問題を最もうまく解決するのが、高度な教育を受けた価値中立的な専門家だと主張することが、民主主義を腐敗させた。

多くのアメリカ人は、賢明に努力する人々が出世できる「アメリカン・ドリーム」を信じている。しかし、今日の世界では、アメリカ本国にそのチャンスは少なく、北欧諸国や中国のほうが、経済的流動性(階層移動の確率)が高く、アメリカン・ドリームを体現できる環境にある。


5 学歴偏重主義
学歴が武器となる現象は、能力や功績がいかにして一種の専制となりうるかを示すものだ。
この数十年のあいだに、リベラルで進歩的な政治によってなされた基本的主張は、グローバル経済が、まるで人間の力の及ばない事実であるかのように、どういうわけかわれわれにのしかかり、頑として動こうとしないというのだ。政治の中心問題は、そうした事態をいかにして変革するかではなく、いかにしてそれに適応するかであり、低所得労働者の保護ではなく安楽死であったのだ。
状況を変えるための具体的な方法として提案されたのは、彼らもまた「グローバル経済の中で競争し、勝利を収める」ことができるようにすることだった。
高等教育の間口を広げようとしたのである。

しかしそれは、グローバル経済の中で過酷な状況に出くわしてしまう責任は、大学の学位を持っていない人「自身」にあると暗黙のうちに認めている。

現代の容赦ない学歴偏重主義は、労働者階級の有権者をポピュリストや国家主義者の政党へと走らせ、大学の学位を持つ者と持たない者の分断を深めることとなった。

しかし、学歴偏重主義のなにがいけないのだろうか?高い教育を受けた者に政府を運営させることは、彼らが健全な判断力と労働者の暮らしへの共感的な理解を身に着けている限り、一般的には望ましいと言える。ただ、歴史が示すところによれば、一流の学歴と、実践知や共通善を見極める能力のあいだには、ほとんど関係がない。
それどころか、欧米においては、低学歴の人々も高学歴のエリートたちも、「低学歴者」に――違う人種の人間や性的マイノリティよりも強く――否定的態度を示すことが分かっている。いい点を取る能力と、政治的判断能力や道徳的人格の高さは関係ないのだ。


6 成功の倫理学
実際問題、完全な能力主義社会が実現し、すべての子供に平等な機会が与えられたとき、正義に叶う社会が成立するのか?
それはいささか疑わしい。まず、能力主義の理想にとって重要なのは流動性であり、平等ではない。格差は問題ではなく、自身の努力や堕落によって階層間の移動が容易に起こり得ることを望んでいるのだ。

ハイエクは「功績」と「価値」を明確に区別している。ある人が優れた仕事をしたからといって、その人の価値自体が高いわけではない。たまたま社会が評価してくれる才能を持っていることは、自分の手柄ではなく、道徳的には偶然のことであり、運の問題なのだ。
ロールズは、「格差原理」によって、才能ある者にはその才能を育て発揮するよう促すとともに、そうした才能によって市場で獲得される報酬はコミュニティ全体と分け合うべきだと主張している。
両者はともに、経済的報酬は人々が値するものを反映すべきだという考え方を拒絶している。

「懸命に働き、ルールを守って行動する人々は、その才能が許す限り出世できなければならない」。能力主義エリートはこのスローガンを唱えることにすっかりなれてしまったので、そのスローガンがグローバリゼーションについていけなかった人々への侮辱を内包していることに気づかなかったのだ。


7 高等教育がいかにして選別装置と化したか
コナントは、高等教育の機会の平等化に力を入れていた。しかし、将来の市民全員を政治的民主社会の一員として教育することが大切だと考えてはいたが、公立学校のそうした市民的目的は二の次で、重視したのは地頭のいい学生へ奨学金を貸し付けるという「選抜制度」だった。彼が求めていたのは平等の解消ではなく、ヒエラルキーの位置を流動的に変えられるシステムだった。
彼の理念は、大学を支払い能力による入学から能力にもとづいた入学に変えるというものであり、実際、大学教育は彼の理念どおりに方針転換した。しかし、100%彼が期待したような展開にはならなかった。

①SATの得点は富に比例している。
②能力主義が不平等を固定化している。
③能力主義時代の高等教育は社会的流動性を生まず、特権階級の親が子に与える優位性を強化している。

しかし、勝者が生き残るトーナメント制の高等教育のどこが好ましくないのだろうか?
その理由は2つある。第1に、不平等を拡大したことだ。第2に、勝者に大きな犠牲を強いることだ。
名門大学のキャンパスには裕福な家庭の子女が圧倒的に多いことを考えれば、勝敗はあらかじめ決まっているようなものだ。ところが、熾烈な受験競争の中にいると、合格は個人の努力と学力の成果だとしか考えられない。こうした見方が、「成功は自らの努力の賜物であり、自力で勝ち取ったものである」という信念を芽生えさせる。
こうした大学受験への(たいていは大学入学後も続く)選別と競争の消耗戦のサイクルが、学生にかつてないほどの精神的苦痛を与えている。彼らは「ひそかに蔓延する完璧主義という病」を患っているのだ。

現在の大学入試制度に対するサンデルの意見は主に次の通りだ。
・貧困家庭へのアファーマティブ・アクションを実施する
・標準テストの受験を必須としない
・SATへの依存を減らすとともに、レガシー出願者、スポーツ選手、寄付者の子どもなどの優遇をやめる。
・ある程度適格な受験生の中からくじ引きで入学者を決める(能力を資格の一基準として扱うだけで、最大化すべき理想とは捉えない)。


8 労働を承認する
能力主義の時代は、働く人々を陰険なかたちで傷つけてきた。労働の尊厳を蝕んできたのだ。だからこそ、グローバリゼーションがもたらす不平等が多くの怒りと反感を生んだのだ。
繁栄する人々がいる一方で、グローバリゼーションから取り残された人々は悪戦苦闘しただけでなく、自らの労働がもはや社会的評価の源ではないとも感じてきた。社会の目に、そしておそらく自身の目にも、彼らの労働は共通善への価値ある貢献のようには映らなくなった。

経済的懸念は、自分の懐にあるお金だけに関わるわけではない。経済に果たす役割が社会の中の自分の地位にどう影響するかにも関わる。言い換えれば、経済においてわれわれが演じる最も重要な役割は、消費者ではなく生産者としての役割なのだ。

労働の尊厳について議論することが必要だ。共通善への真に価値ある貢献とは何か、市場の裁定のどこが的はずれなのかについて、慎重かつ民主的な考察を促す方法を論じ、規定することが求められている。
また、税負担を労働から、消費と資産と金融取引に移すことも必要だ。
そして、機会の平等を、広い意味での「条件の平等」に変えていくことも大切である。社会的に評価される仕事の能力を身に着けて、発揮し、広く行き渡った学びの文化を共有し、仲間の市民と公共の問題について熟議することによって、万人がまともで尊厳ある暮らしができるようにしていくことが求められている。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2021年5月10日
読了日 : 2021年5月10日
本棚登録日 : 2021年5月10日

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