あやうく一生懸命生きるところだった

  • ダイヤモンド社 (2020年1月16日発売)
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【感想】
韓国は、大卒エリートであっても就職ができない社会だ。韓国では大卒貧困者の割合が世界トップレベルである。国民の8割が大卒にもかかわらず、就職できるのは6割程度であり、しかも一流企業以外は意味がないとされている。韓国では非正規雇用から正規雇用になるのが極めて難しく、副業や起業も奨励されていない。いい大学を卒業したエリートから、まともな仕事の枠を埋めていく。
要するに、一度失敗すると挽回できない社会なのである。

筆者のハ・ワンもそうした韓国社会において、「生きづらさ」を抱えた一市民だ。
筆者は韓国一の美大こそ出ているものの、就職の難しさという意味では、地方大学の学生となんら変わらない。いい大学に入るために必死で受験勉強をして、学費を稼ぐために学業そっちのけでバイトをし、一流企業に入るために懸命に就職活動をする。しかし、ほとんどの会社に断られるうち、次第に入れる会社なら手あたり次第受けるようになっていく。やっとの思いで入った会社では、長時間労働と薄給が当たり前。そうした現状を目の当たりにして思ってしまうのだ。「こんなに一生懸命生きて、何かいいことはあったのか?」と。

成長主義社会に生まれてしまったわれわれは、自発的に進歩し続けなければならない。資本主義において停滞は悪であり、個人においても成長とスキルアップが求められ続ける。だが、「ここで頑張れば将来楽になるから」と言われたものの、一体その将来はいつ来るのか。

「あと10分我慢して登れば山頂だと言われてひぃひぃ登ったのに、10分経っても頂上は現れなかった」。
本中の言葉が語るとおり、筆者もデスレースに巻き込まれた人間だったのだ。

そして何より、社会ははみ出し者に厳しく、失敗者にはもっと厳しい。いい大学を出ていなければ落ちこぼれで、大企業に就職していなければ負け組、サラリーマンをやめてフリーランスなど狂気の沙汰だ。仮にそうした一般的なレールに乗っかっていても、プライベートに欠陥があるとダメだしを受ける。いい歳して結婚していないのはおかしい、子どもを作らないなんて人間としての義務を果たしていない……。

世間様からの突き上げに限界がきた筆者は、すべてを諦めた。会社をやめ、イラストレーターになり、ほどほどにのんびり生きることを選んだ。こうした経験を経て、「この努力至上主義社会はおかしいのではないか」と書かれたのが、本エッセイなのだ。
「努力は、必ず報われるわけじゃない。自分が『こんなにも』努力したのだから、必ず『これくらい』の見返りがあるべきだという思考こそが苦悩の始まりだ。」

「あやうく一生懸命生きるところだった」というタイトルではあるが、中身はペシミズム一辺倒ではない。「試しもせずに諦めると、諦めたことは心の片隅にずっと残り続けるから」だとか、「僕らには挑戦する権利がある」など、割と前向きな言葉も多い。筆者が呈しているのはただの厭世論というよりもむしろ、韓国という特定の社会に対する不満であると言えるだろう。

本書の面白いところは、韓国の社会システムと日本の社会システム――受験勉強→就職活動というルートや、家父長制――が似ており、筆者の嘆きが決して対岸の火事とは思えない部分にある。もちろん、韓国ほどラディカルではないものの、筆者の心をくじいた要素は、日本においても広く散見される。
他人事だけど、どこか他人事とは思えない。そうした距離感の絶妙さがこのエッセイの醍醐味だ。

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【メモ】
全力で走り続けているのに、良いところの一つもない敗者。
あと10分我慢して登れば山頂だと言われてひぃひぃ登ったのに、10分経っても頂上は現れなかった。
もう少しだよ、本当にここからあと10分だから……。その言葉にダマされながら40年も山を登り続けてきた。ここまで登ったついでにもう少し登って見ることもできる。必死に登り続ければなにか見えてくるかもしれない。でも、もう疲れた。気力も体力も底をついた。
チクショウ、もう限界だ。

これ以上、負けたくないから、一生懸命をやめた。
そもそも、誰と戦って何に負けるのかは、さっぱりわからない。

努力は、必ず報われるわけじゃない。
自分が「こんなにも」努力したのだから、必ず「これくらい」の見返りがあるべきだという思考こそが苦悩の始まりだ。

ほんの少し顔を上げて周囲を見渡すだけで、ほかの選択肢がいろいろとあると気づくのに、執着してしまうとそれが見えなくなる。
たった一つ、この道だけが唯一の道だと信じた瞬間、悲劇が始まるのだ。

会社員時代、自分の時間をほしがっていた理由は、何かをしたいからではなく、何もしたくなかったからではないか。ひょっとして僕らは、本当の自分の望みを知らないまま、どうでもいいモノやコトでこの渇いた気分を満たしているのかもしれない。

本当にやりたい仕事は「探す」のではなく「訪れる」ものなのだ。

ひょっとすると、僕らは仕事に対し、あまりにも多くのことを望みすぎているのかもしれない。食べていくのは大前提として、お金をたくさん稼げるほどいいし、自己実現もできて、面白くて、そこまできつくなくて、それに休みも多くて、尊敬されて…
それってどんな仕事だろう。

時代が変わっても、教育は変化についていけずに古い価値観を押し付け続けてきた。夢ではなく成功を教える教育のことだ。
しかし、ここ数年でいきなり態度を豹変させた。若者たちに「夢を見ろ」と言い始めたのだ。
その言葉が上滑りにしか聞こえないのは、僕らの社会が夢を見て何かを成し遂げるには困難な「正解社会」だからだ。
思いっきり夢見ることが許される世の中になってほしい。心からそう思う。そして何よりも、特別な夢なんかなくても幸せでいられる世の中であってほしい。

人はそれぞれ、その人なりの速度を持っている。
自分の速度を捨てて他人と合わせようとするから、つらくなるのだ。

そう、人生の大半はつまらない。だから、もしかすると満足できる生き方とは、人生の大部分を占めるこんな普通のつまらない瞬間を幸せに過ごすことにあるのではないか?

世界は僕らが不幸だとダマしている。不幸になりたくないなら、もっと所有しなさいと囁きながら。本来はない欲望を生み出してこそ、資本主義経済が回転していくから。
そんな資本主義社会で騙されることなく生き抜くのは、たやすいことではない。騙されていないか、常に自分自身に問いかけることが大切だ。
「今の自分の欲望はどこから来たものか?」
「自分の人生は本当に不幸なのだろうか?」
「世間に騙されることなく生きているだろうか?」と。

期待すれば期待するほど、人生が「これっぽっちの人生」としか思えなくなる。自分の願いとかけ離れた「引きずられていく人生」としか思えなくなってしまう。

あまりに結果を得ることだけを急ぎ、過程は「結果を得るために我慢する時間」くらいに考えていた。その過程だって十分に楽しめたはずなのに。
結果のために耐えるだけの生き方じゃだめだ。課程そのものが楽しみなのだ。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2021年8月18日
読了日 : 2021年8月14日
本棚登録日 : 2021年8月14日

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