軌道 福知山線脱線事故 JR西日本を変えた闘い

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  • 東洋経済新報社 (2018年4月6日発売)
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【感想】
福知山線脱線事故から18年。ネットで検索すると、当時の事故状況を物語る衝撃的な画像を見ることができる。先頭車両がマンションの1階部分に突っ込み大破、そのすぐ後ろには横倒しになった車両がぴったりとくっついているのだが、何とそれは「3両目」。あいだの2両目は、マンションと3両目に押しつぶされ、板のように平らになっている。財布に入っていた硬貨が折れ曲がるほどの衝撃だったというのだから、いったい中に乗っていた人はどれほどの力を受けたのだろうか。彼らの苦しみを思うと、胸が張り裂ける思いである。

本書は、福知山線脱線事故の遺族である淺野弥三一が、事故の原因究明をめぐってJR西に追及を重ねていく様子を描いたノンフィクションだ。JR西との対話の中で、この事故は「運転士個人の不注意」ではなく「組織的な欠陥」が原因であると確信した淺野は、なんと加害企業のJR西と遺族との間で「共同検証」を行おうと提案する。淺野は「被害者と加害者の立場を超えて同じテーブルで安全について考えよう。責任追及はこの際、横に置く。一緒にやらないか」、と社長の山崎に持ちかけ、これ以降両者間で再発防止策の策定が進んでいく。

では、淺野が指摘する「組織的な欠陥」とはいったいなんだったのか。
その一つに、JR西が利益を重視するあまり安全性を蔑ろにしてきたことが挙げられる。自動列車停止装置(ATS-P)の設置といった安全対策のための投資を後回しにし、列車の輸送能力をひたすら向上させてきたのだ。
1987年4月にJR西日本が発足した当時、宝塚駅~大阪駅間は最速列車で31分であった。 それが、福知山線事故が発生する直前の2005年3月には、22分までスピードアップされていた。一方、阪急電鉄は同じ期間中に、36分だったものを30分に6分短縮した。つまりJRと阪急電鉄の差は、5分から8分に拡がったのである。この8分の差はJR西日本に競争上の優位をもたらした。阪急電鉄の宝塚駅~梅田駅間の輸送量は、1995年度の2億437万人をピークに2001年度には1億7885万人と年間約2550万人も減少しているが、 この要因の一つは阪急電鉄からJR西日本に相当数の乗客が流れたことにある。
とくに福知山線ではダイヤ改正のたびに余裕時分が削られ、また駅の停車時間が短縮されていった。このため、運転士は余裕のない運転を強いられ、同路線では列車の遅れも慢性化していた。
そして、スピードアップした時点で整備すべきだったATS-Pは98年から長く放置されていた。設備投資は新製車両の導入など競争力強化のための投資に優先され、安全性は二の次にされてきたのだ。

また他の原因として、事故を起こした高見運転士へのパワハラが挙げられる。
高見運転士は過去3回日勤教育を受けていたが、指導というよりはむしろ懲罰的な側面が目立っていた。上司から何時間にも渡って事情聴取を受けており、その内容は人格否定や恫喝に近かった。事情聴取後は給料手当が一部減らされたうえに「再教育」が行われるが、何十通ものレポートを書かされ続けるといった内容で、自己改善の意味合いは薄く、根性論による指導に近かった。

そして一番の問題は、これらを「問題行為」と捉えず、改善する意思のないJR西の組織風土であった。脱線事故についても「運転士のヒューマンエラーによるもの」「ATS-Pの設置は適切であった」「現在のダイヤ編成でも、標準的な運転をすれば定時運行はできる」という答弁を行い、事故そのものを「予測不可能な天災」だったかのように扱ったのだ。

本書では、そこまで組織が硬直化した理由として、JR西日本の天皇、「井手正敬」の存在に言及している。

井出がトップだったころのJR西の社風について、事故後に社長に就任した山崎は、「安全には厳しいが、事故が起これば厳しく責任追及するという手法で、考え方が違うと思った」「震災のあった96年頃から活発な議論がなくなった。私自身、叱責を受けることが多く、意見を言いにくかった」と証言している。幹部の南谷や垣内も「物を言いにくいという声は一部にあった」と、井手独裁の弊害を認めている。

一方の井手は、「組織風土に問題はない」と断じ、JR西の内情をめぐって次のように主張している。
――民営化当初や震災時は「野戦」だから、自分がすべて決めた。怒鳴りつけてでもやらせた。それで一定の成果を上げた。しかし、社員に依存心が生まれて、何も決められなくなった。責任を負わず、過剰に自分を忖度し、おもねる人間ばかりになった。創業期はそれでよくても、守勢に入る10年目以降は変わらねばならない。だから、株式上場を機に自分は会長へ退いた。現場への関わりも弱めた。だが、会社は変われず、むしろ国鉄時代に戻ってしまった。そして、福知山線事故が起こると、企業体質、つまり自分を筆頭とする旧経営陣のせいにし、会社全体が責任逃れに走った。そういう戦略で組織を守り、南谷垣内は地位を守ったのだ。

世間は、「井手こそが官僚主義体制を作った」と認識しているが、井手は「官僚主義体制は国鉄時代からあった。自分は国鉄改革をしてその悪政を打ち破ったんだぞ」という認識を持っている。
井手の立場から見れば、これはこれで筋が通っているのだろう。だが、別の視点で見れば、 主張にはいくつも矛盾が見える。官僚主義の原因といわれる予算・法令・前例などの縛りが、 民営化後は「井手の意向」という、より強力な縛りに一元化され、取って代わっただけである。自分が社員の手足を縛り、ミスを責め立てながら、「顔色をうかがうな」「自由に発想し ろ」と言っていたのではないか。「次に譲りたい」「いつまでも頼るな」と言いつつ、部下が独自決めたことには「判断が間違っていた」と不満を漏らしているのではないか。

井手はずっと、国鉄の幻影と戦っていた。しかし、事故のあった2005年当時でも、民営化してから既に18年が経っている。この間にビジネスのフィールドではCSRの取り組みが進んでいたが、JR西は変われないままだったのである。

――震災復旧をきっかけにした急成長は井手の言う通り、真の民間企業への脱皮だった。だが、それは同時に、井手のカリスマ性をより高め、権力集中を決定付ける出来事でもあった。「あの震災後、誰も井手さんに物が言えなくなった」と幹部たちは言い、井手自身もそれを認める。井手独裁体制は、こうして完成した。

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【感想】
0 まえがき
2005年4月25日、JR西日本の宝塚駅発同志社前駅行きの上り快速電車が脱線事故を起こし、尼崎市久々知3丁目のマンションに激突した。JR福知山線脱線事故である。
事故調査が認定したのは「運転士のブレーキ遅れ」、つまりは個人の注意散漫によるミスだった。
しかし、これはただの「結果」に過ぎない。
本当の原因は、それを引き起こしたJR西日本という組織の問題だった。

分割・民営化を主導した「国鉄改革三人組」の一人であり、「JR西の天皇」と呼ばれるほどの権勢を誇った井手正敬は、追悼慰霊式にも姿を見せなかった。事故につながる組織風土を作った最重要人物として、淺野ら遺族たちが再三面会を要望してきたが、歴代社長裁判の法廷以外、公式の場に出てきたことはない。事故以降、マスメディアの公式取材に応じたこともほとんどない。
井手に代表される「国鉄一家」の強烈なエリート意識と、それゆえ自らの過ちを決して認めず、部下や現場にもミスを許さない「無謬主義」。その強固な組織の論理に、淺野は事故後の10年余り、自らのすべてをかけて挑み続け、ついに硬い岩盤に穴を穿った。


1 ずさんな体制
「おそらく彼(JR西日本会長の南谷)はこれまでもそうしてきたし、あの会社ではそれでも出世できたんでしょう。だけど僕にすれば、これほど非常識かつ稚拙な人間がトップにいる組織に女房は殺されたのか、殺されねばならなかったのかとあまりにも不条理ですよ。その時から、この事故を不条理ととらえ、なぜそんなことが起こったのかを考えるようになっていった」
これがJR西日本という組織に対する淺野の第一印象である。「誠心誠意の謝罪」「100%当社に責任がある」と口では言いながら、その実、被害者に与えた損失や苦しみや窮状を一つも理解しようとせず、自社の論理や組織防衛ばかりを優先する。

JR西という巨大組織は迷走していた。脱線事故発生から6時間後の記者会見では、「置き石が原因、速度超過による脱線は起こり得ない」と説明をしていたが、3日後の国交省の事故調で否定され、安全推進部長が謝罪を行った。

JR西日本は5月末に安全性向上計画を国交省に提出している。そこでは、
▽事業運営に余裕がなく、安全への取り組みが形式的だった▽減点主義がミスを隠す風潮につながった▽経営トップが現場に足を運ばず、現場社員間でもコミュニケーションが不足していた▽前例主義や縦割り意識の影響で事故対策が対症療法的だった――と組織風土を反省したうえで、▽運転士の新たな研修制度や適切な再教育の導入▽ATS-Pの設置をはじめとする安全設備の強化▽所要時間や制限速度など列車ダイヤの見直し▽安全諮問委員会の設置など安全推進部の機能強化
といった再発防止策が列挙されていた。

淺野は6月18日の遺族向け説明会で、JR西の幹部に手書きのメモを手渡す。懲罰的な日勤教育、余裕のないダイヤ編成、ATS-Pの設置遅れ、会社全体の安全管理体制。まずそれらについて、JR西自身の見解と納得のゆく説明を求める、という通告だった。淺野は「原因究明と結果説明を求めていくことが、われわれ遺族の使命、社会的責務だと思う」と述べた。


2 うやむやなままの事故対応
JR西は事故1年を過ぎても、実質的には何も変わらなかった。佐藤弁護士が言う「非常に硬直した、官僚主義の、責任や誤りを決して認めず、絶対に譲歩しない」組織風土は、事故後に一層強化されたといえる。

それを物語る事故2年目の出来事がいくつかある。
その一つが、「天下り問題」と言われた、退任役員の処遇とその隠蔽である。事故直後に引責辞任した元幹部3人が関連会社の社長などに就いていたことが、2006年6月の株主総会をきっかけに表面化したのだった。

また、事故でパートナーを失った32歳の女性が06年10月、自宅マンションから飛び降りて死亡する事件が起こった。
事故犠牲者の男性と1年間同居する事実婚関係だった女性は、4.25 ネットワーク(事故被害者の会)に参加していた。彼女の訴えによると、JR西は事故直後の2ヵ月間は生活費を支払ったものの、未入籍を理由に打ち切られたという。弁護士を通じて交渉すると、ようやく生活費を持参したものの、妻や遺族として扱われないこと、男性にとって「存在しない人」と見なされていることに、女性は深く悩んでいた。
JR西は補償について、遺族に対しては、逸失利益(犠牲者が生きていれば得られたはずの収入)、慰謝料、葬儀関係費の3つを柱に提示し、負傷者へは治療費、休業補償、慰謝料を基本とする方針を示していた。前社長の垣内は辞任会見で「数人の負傷者と補償交渉が合意し、一部の遺族と具体的に話し合う準備ができた」と話したが、実際に示談が成立したのは多くが軽傷者で、重傷者や遺族とはほとんど交渉にも入れていなかった。

安全対策についても思想は変わらないままだった。
事故後に最も強い批判を浴びたのは日勤教育である。日勤教育とは、ミスをした乗務員を一 定期間乗務から外して行う再教育であり、その内容が極めて懲罰的で、運転士のプレッシャーになっていることが指摘されている。日勤教育に教育内容や日数の規定はない。各現場長の判断で、反省文や就業規則の書き写し、線路の草むしり、トイレ掃除、ホームに立って列車が到着するたびに挨拶と礼を繰り返すなどを行わせた。上司との面談で長時間にわたって罵声を浴びせられた、人格否定まがいの叱責を受けたという職員も多く、JR西労や国労は長年是正を求めてきた。
しかし、丸尾は意見徴収会で「問題はなかった」と主張する。加えて、
▽車両検査に怠りはなかった▽ATS-Pの設置計画は順次、適切に進めている▽余裕時分がない運行計画(ダイヤ編成)でも、標準的な運転をすれば定時運行はできる▽ヒヤリハットの報告、JR他社の事故などを参照し、ソフト・ハード両面で安全管理体制を整えてきた
と、その内容は弁明と責任逃れ、自己正当化に終止し、事故調の調査方法を批判までする無反省ぶりだった。


3 事故原因
事故が起こった原因の一つに、都市圏の列車のスピードアップがある。
1987年4月にJR西日本が発足した当時、宝塚駅~大阪駅間は最速列車で31分であった。 それが、福知山線事故が発生する直前の2005年3月には、22分までスピードアップされていた。一方、阪急電鉄は同じ期間中に、36分だったものを30分に6分短縮した。つまりJRと阪急電鉄の差は、5分から8分に拡がったのである。この8分の差はJR西日本に競争上の優位をもたらした。阪急電鉄の宝塚駅~梅田駅間の輸送量は、1995年度の2億437万人をピークに2001年度には1億7885万人と年間約2550万人も減少しているが、 この要因の一つは阪急電鉄からJR西日本に相当数の乗客が流れたことにある。
とくに福知山線ではダイヤ改正のたびに余裕時分が削られ、また駅の停車時間が短縮されていった。このため、運転士は余裕のない運転を強いられ、同路線では列車の遅れも慢性化していた。
そして、スピードアップした時点で整備すべきだったATS-Pは98年から長く放置されていた。設備投資は新製車両の導入など競争力強化のための投資に優先され、安全性は二の次にされてきたのだ。

また他の事故原因として、高見運転士への日勤教育が挙げられる。
事故を起こした高見運転士は過去3回日勤教育を受けていたが、指導というよりはむしろ懲罰的な側面が目立っていた。上司から何時間にも渡って事情聴取を受けており、その内容は人格否定や恫喝に近かった。事情聴取後は給料手当が一部減らされたうえに「再教育」が行われるが、何十通ものレポートを書かされ続けるといった内容で、自己改善の意味合いは薄く、根性論による指導に近かった。

そして他にも、宝塚―尼崎間のダイヤがあまりに過密すぎて遅れが常態化していたこと、現場カーブへのATP-Sの設置が遅れていたことが問題となった。

JR西は、利益追求のためにスピードアップと職質の過剰な締め付けを行う一方で、安全投資を怠り、現場の意見も上がりにくく、ミスを報告しにくい組織になっていた――さまざまなところで指摘されてきた「組織風土」「企業体質」の問題を、事故調査委員会は丹念な聞き取りや資料調査で具体的に指摘した。


4 組織改善に向けた協同
事故後、JR西の新社長となった山崎正夫。彼は子会社から呼び戻され、JR西で初の技術屋社長となった。しかし兵庫県警からの在宅起訴を受け、3年5ヶ月で社長を退くこととなった。
山崎とたびたび対話していた淺野は、「責任逃ればかりしてきた役員たちとは違う」と感じていた。そして、事故調最終報告が出てから考え続けてきた構想を話した。遺族の代表者とJR西の関係者、それに中立的な学識経験者を加えた三者による事故の共同検証委員会の設置である。「組織的・構造的問題を具体的に解明し、安全を再構築するために」と、検証委員会の設置を求める要望書を、4.25ネットワークからJR西へ、4月に提出していた。

「被害者と加害者の立場を超えて同じテーブルで安全について考えよう。責任追及はこの際、横に置く。一緒にやらないか」淺野は山崎にそう語りかけた。

しかし、09年9月25日、今までの調査の根底を揺るがす重大な不祥事が発覚した。福知山線脱線事故の調査に当たった事故調委員の山口浩一が、調査対象であるJR西の社長、山崎に報告書の内容を公表前に漏らしていたというのだ。これをきっかけに、自己調査や捜査に対するJR西の工作が次々と報道などで明らかになった。
・議事録未提出
・鉄道部会長への接触
・意見徴収会の公述人依頼
・供述内容の口裏合わせ

山崎はつぎのように釈明した。
「事故当時の混乱の中で社長に就任し、孤独な手探り状態から始めざるを得なかった。報告書の内容によっては、今後の社の方向性が変わるかもしれないという危機感があり、国鉄一家の絆に頼って、思慮に欠けた愚かな行動をしてしまった」
山崎は就任後社内で孤立しており、自分一人でなんとかしないとと必死になって、組織防衛に走ったのだ。

一連の不祥事は、最終報告書の事実性・公正性への疑い、事故調そのものの中立性の疑問視、そして山崎自身への信頼を崩れさせる結果となった。

山崎の過失責任をめぐる裁判は12年1月11日に無罪の判決が言い渡された。「予見可能性の程度は相当低く、注意義務違反は認められない」と、山崎の主張がほぼすべて認められる内容だった。一方で裁判長は、JR西の安全対策について「リスク解析やATS整備のあり方に問題があり、大規模鉄道事業者として期待される水準になかった」と批判した。

淺野が山崎に構想を語った共同検証委員会・「課題検討会」は計16回に渡った。その後、課題検討会の成果を踏まえ、淺野ら遺族とJR西、安全問題の専門家たちが今後の安全対策を議論・提言する目的の「安全フォローアップ会議」が開かれた。同会議は11回に及び、組織事故の構造を明らかにしたうえで、ヒューマンエラー非懲戒、リスクアセスメントの充実、第三者機関による外部監査などを提言。「追悼と安全のつどい」で淺野が総括した。
2016年には鉄道事業者としては初の「ヒューマンエラー非懲戒」の新制度がスタートした。

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感想投稿日 : 2023年7月4日
読了日 : 2023年6月28日
本棚登録日 : 2023年6月28日

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