死の淵にいる節子を献身的に支える主人公が、サナトリウムでの生活を通して、何気ない生が如何に幸福に満ちているものかを知る。
「しかし人生というものは、お前がいつもそうしているように、何もかもそれに任せ切って置いた方がいいのだ。……そうすればきっと、私達がそれを希おうなどとは思いも及ばなかったようなものまで、私達に与えられるかも知れないのだ。……」
主人公の人生観は行雲流水であり、妻の病気に対しても恨みを洩らすことはない。病人の世話をすることを通じ、成り行き任せの人生においては無私無欲たることが、純な幸福を享受する鍵だと感じている。この主人公の献身性と、節子が弱音を吐かずただ自身の生に向き合う様子が、透明感のある表現で綴られている。
しかし、物語の後半になると、主人公は自分の幸福感に少し疑いを感じる。
「こうして病人と共に愉しむようにして味わっている生の快楽――それこそ私達を、この上なく幸福にさせてくれるものだと私達が信じているもの、――それは果して私達を本当に満足させ了せるものだろうか? 私達がいま私達の幸福だと思っているものは、私達がそれを信じているよりは、もっと束の間のもの、もっと気まぐれに近いようなものではないだろうか?」
今の幸福は、妻が今際の際にあるがために生まれている特殊な感情であり、自分達の被害者意識が生んだ、自らへの憐憫なのではないか。この感情はただ一時の哀愁であり、時が過ぎてしまえば、途端に日常の些細な喜びと判別のつかぬものになるのではないか。
主人公は、自分の幸福の感情が深いものなのかきまぐれから来るものなのか、どちらに属するのかはっきりしない思いを抱えながら、妻とゆっくりとした時を過ごしていく。
そして妻が死んだ後、一人で雪中の小屋で過ごす描写に、その答えがある。
「――だが、この明りの影の工合なんか、まるでおれの人生にそっくりじゃあないか。おれは、おれの人生のまわりの明るさなんぞ、たったこれっ許りだと思っているが、本当はこのおれの小屋の明りと同様に、おれの思っているよりかもっともっと沢山あるのだ。そうしてそいつ達がおれの意識なんぞ意識しないで、こうやって何気なくおれを生かして置いてくれているのかも知れないのだ……」
答えは、深くもありきまぐれでもあるということだった。幸福は身の回りに溢れているも、意識すること無しに通り過ぎていく。自分が妻と過ごした日々は、深い心の内から溢れ出た幸福と共にあったことは、確かに間違いなかったが、それと同じぐらい、日常の幸せも辺りに漂っている。
きっと、他人から見れば自分は多くの幸せに囲まれているが、それと同じぐらい素通りした幸せがあって、自分の心が掬うことのできた量だけを、人生の出来事として思い返しているに過ぎないのだ。
この主人公の禅とした人生観に感動してしまった。同時に、死を前にしても恨みも後悔も口にしない節子を共に描くことで、主人公の内面描写により磨きがかかっており、無償の愛と諦念の心を絶妙に描く、物悲しい文体に胸がいっぱいになった。
- 感想投稿日 : 2020年11月3日
- 読了日 : 2020年10月30日
- 本棚登録日 : 2020年10月29日
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