不死のワンダーランド 増補新版

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  • 青土社 (2002年9月1日発売)
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1970年代以降のフランス思想家達が自らの課題として引き受けた使命は、人間の漂白であった。戦後思想界を席巻した、サルトルを筆頭とする苛烈な実存主義哲学が、『野生の思考』によって息の根を止められたのが契機となって、以降、構造主義と呼ばれる科学的な人文知が台頭する。この新たな思想潮流はF・ソシュールによる一般言語学やブルバキの集合論などを規範として採用し、学際的な様相を強めつつ発展する。

マルクス主義、記号論、文化人類学、哲学など、広範にわたる学術分野を一応共扼していた概念が「構造」である。ヤコブソンによるソシュール評に端を発するこの概念は、その内的形質を縦横無尽に拡張しながら時代を覆い、様々な方法や試みを巻き込みながらいわゆる現代思想を形成していった。

本書が提示するのは西谷修がこの潮流の中に読み取った死の、そして非-死の有様である。第二次世界大戦を通してヨーロッパが経験したものは何であったか。国家が人口を賭して獲得したものは、生産したものは、果たして如何様なものであったか。その途方もない自壊の象徴としてのアウシュビッツは、大文字のアウシュビッツは、何と形容されたか。壮大な観念論を生んだ哲学の王国は、その臣民は、仄暗い熱狂の末に何を遺したか。

死だ。無数の死だ。ある規定された人口…"ユダヤ人"やヒロシマ"…の上に、死という仕組みが、機械が、構造が降り注ぎ、その区画をまるごと死-化した。人間の生命を材料に、死は生産され続けた。アウシュビッツはあくまでもポジティヴに死を量産する工場だった。その為体にバタイユが、四肢をもがれ、嘆き、苦しみ、発狂する神の姿を重ねたのも故無きことではない。この悲劇の舞台を整え、脚本を書き、演じたのはキリストのコルプス(corpus=四肢)、他ならぬヨーロッパであったのだ。

「人間の漂白」という表現はアメリカの哲学史家、ジョン・パスモアから拝借したが、本書で扱われる思想家達が目指したのも、やはりこの点であるように思う。ではなぜ、人間は消えなくてはならなかったのか。主体は否定され、"私"はスピノザ的な過去へと解体されなくてはならなかったのか。それは、きっと、ヨーロッパを解放する為だった。人間の限界を遥かに超えた罪から、ヨーロッパを逃がす為だった。人間が主体的にアウシュビッツを行えない。行えるはずがない。あんなに残酷で、冷静で、酸鼻を極める殺戮を、人間が行えるわけがない。現代思想家の多くは、ラカンにしろ、レヴィナスにしろ、ブランショにしろ、壮絶な戦火の中を駆け抜けた経験を持つ。だから彼らの言葉は、どこか悲壮な祈りにも似ている。

西谷が本書で列挙してみせる非-死の数々は、以上のような試みの結果であると、僕は思う。目を覆いたくなる程の死の集積の果てに、燦然たる知性の誠実な努力によって、見事に人間は漂白された。しかしその試みは、死をも同時に漂白した。人間は、死を奪われてしまった。そして地上は『不死のワンダーランド』となる。

取り扱う思想家の論旨を丁寧に組み、消化し、「死」という一つのテーマに収斂させた西谷修の構想は本書で見事に達成されている。不死のワンダーランドに生きる我々に、その外縁を示してくれる良書である。

読書状況:未設定 公開設定:公開
カテゴリ: 日本
感想投稿日 : 2013年4月8日
本棚登録日 : 2013年3月28日

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