アンダーグラウンド (講談社文庫)

著者 :
  • 講談社 (1999年2月15日発売)
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本棚登録 : 374
感想 : 28
5

とても個人的なことで傷ついて、ここ数日本棚にあった「村上さんのところ」や「村上春樹、河合隼夫に会いに行く」という本を読んでいた。その中で、「アンダーグラウンド」という1995年の地下鉄サリン事件の被害者のインタビューをまとめた本があることを知り、いつか読まないとな、と思っていた。ただ、確実に楽しい気分になる本ではないということはわかっていたので、読むタイミングを躊躇していた。
友人は多い方でも少ない方でもないと思うが、実際ある年齢の"いい大人"になると、個人的な抱えていることを相談できる友達というのはあまりいないのかもしれない。それに、これまでの経験で、相談しても結局は至極個人的なことであって、学生の時などとは違って長年の友人であっても人生経験は全く異なるわけで、一時的に気持ちが楽になったり気が紛れたりしても、根本的な解決にはならないことを学んだ。相手に話すとき、私は解決策ではなく私の感じていることへの同調、共感を求めているだけだった。そのためひどい時は、人に話したことで返って自分が余計に深く傷ついてしまうこともあった。たとえ相手が真摯に聞いてくれたとしても、私自身が本音を言えたとしても、その"正論"によって、自分の論を通すことによって。私はおそらく人と話すことで共感(Empathy)を求めていたが、同情(Sympathy)は得られることがあっても、共感(Empathy)を得られたと感じることはなかった、友人からも恋人からも。それは当たり前のことでもある。でもそれが私を苦しめ、孤独な気分にさせた。
※同情(Sympathy)は、他人の状況を思いやり、支援する能力であるのに対して、共感(Empathy)は他人の状況や感情を読み取って共有し、効果的かつ適切な方法で対応する能力

私は浄化されるものがたりを探していた。
2022の冬、不運な事故で大怪我を負った。2回の手術を経て、来月の主治医との診察で通院(2022.2 - 2023.11)は卒業だといわれている。身体的に回復を見せる中で、私は心が全く癒されていないことをことあるごとに切々と感じていた。折に触れて、痛いというのではないが膝に違和感を感じたり、再断裂のリスクに恐怖心を感じたり、細くなった太ももを見たり触ったり、怪我前は当たり前にできた正座の練習をしたり、その度に私の中で怒りの感情が沸々と湧いてきた。普段はもちろん心の奥底にギュッと押し込んで、なるべく物事の良い面をみようと、それが自分自身の助けにもなるのだからと言い聞かせていたが、負の感情が湧いてくるたびに、心は全く納得していない、浄化できていないのだと痛切に感じた。不運な事故、具体的に言えば加害者のいる事故。私はその時静止していて、控えめにいって私の行動に落ち度があったかと振り返っても、あの日あの時にあの人と共に行動したからだというぐらいしか思いつかない。私の事故の複雑性は、仲間内で起こった事故、事故といっても交通事故ではないため無法地帯、相手が英国人で考え方の土台が全く異なっていたということにあると思う。彼は悪い人ではないと思う、ただ私の言葉が通じなかった。というより、言葉を文字通りそのまま受け取った。「大丈夫」といったらその言葉通り。「あなたはあなたの時間を楽しんでください」といったらその言葉通りに。彼と遊ぶ事故とは直接関係のない友人にも負の感情をもった。付き合っていたアメリカ人の彼は、そのことに私が憤りを感じると、「でもそれはあなたが言ったんでしょう」「自分が今できないから、人にも同じレベルまで活動の自粛を強要するのか」と。そのこと、彼自身と彼の属する文化にも失望した。日本人ならば皆が同じ考え方をするとは言っていないし思っていない。極端な例ではあるが、オウム真理教で事件を起こした犯人たちも日本人だが理解できない。本の中で理解できないから憎しみも沸いてこない、と語られた方がいたが私は感じる。自分の気持ちの理解を求めて数人に話す中で「悪気があったんじゃないしね」という言葉も引っかかった。悪気がなければ何をしてもよいのだろうか。オウム真理教の犯人たちは悪気ってあったのだろうか。【悪気】 ① 人を憎悪する気持。 また、人に害を与えようという心。 悪意。。あるな。でもこの悪気が犯人達にとっての正義だったのでしょう。その場合、悪意に対しての憎悪は悪気と呼ぶのだろうか。

私は事故のことを考えた時に自分のことを"被害者"だと思う心、被害者意識が自分を苦しめていると思ったので、それを解消したかった。
このアンダーグラウンドの中で事件に遭遇した駅員さんの話に、「自分を被害者だと思わず体験者だと思うようにしている」という箇所があった。それは大きな視点の転換だと思う。言葉のラベリングによって、人の意識は影響を受けると思う。"被害者"という言葉には良いも悪いもないのだろう、この本にも何度もその言葉はでてくる。でも私は体験者、経験者、当事者と置き換えて読んだ方が馴染んだ。

この1年半の間に代償にしたものは、お金、時間、身体的健康。イギリス人の友人は2022.2-2022.12まで医療費を負担したが、そのあとこちらが請求をやめたら(もう関わりたくなかったのだ)連絡も途絶えた。実際、お金でしか賠償することはできないと思うが、当事者となるとお金はあまり問題ではなかった、それよりも失った機会、仕事との両立、リハビリに費やした時間、身体が不自由なことによる精神的苦痛が苦しかった。精神的に健康でいるために身体を動かしなさい、というのは私が信じている心が疲れたときの対処法だが、絶対安静化の中では不可能だった。
ある月5万円を医療費として請求したことがあった。「今月は高いな」という言葉と共にお金が渡された。むなしかった。これは彼なりのジョークなのだと言われた。私を笑わせ、愉快な気分にしようとしたのだと。理解できなかったし、したくなかった。ある時は金閣寺に旅行にいったからと、無病息災のお守りをお土産だと渡された。私は病気ではないし、災いをもたらしたのはあなたでしょう、と怒りが湧いた。他人事としたら笑えるのだろうか、心が広く度量が大きければ笑えるのだろうか。2022.9は医療費を連絡すると、今月は支払いを待ってほしいと返ってきた、イギリスの家族にお金を工面する必要があるからと。詳細は語られず、家族といっても母親なのか犬なのかと訝るぐらいに私の中で彼への信頼度はなくなっていたので(半年も経ってもう飽きたのだろうと思った)。その気持ちを率直にアメリカ人の彼に打ち明けたら「あなたが患っているのはたかが前十字靭帯断裂だ、命に関わる怪我、病気ではない。あなたは彼の母親が病気になっても気にしないのですか?想像力がないのはあなたの方だと」と。私は少し自己嫌悪に陥った。自分が平和ボケしているのかもしれない、自分だけが大変なわけじゃない。でも今冷静に振り返っても腑に落ちない。話が嚙み合っていない、ちぐはぐだ。

過ぎてしまえば1年半の通院期間、短いのか長いのかわからない、が、その渦中にいるときは不安だった。いつまで続くのだろうと。本の中でも後遺症が残っている方が未来への不安を口にされるが、現在進行形の時は終わりが見えず不安だ。

アメリカ人の彼は術後のサポートを献身的に行ってくれ、私が逆の立場だったら同様のことができたか自信がないくらいに、今できることにフォーカスし、よい面をみれるように色々な場所に連れ出したりしてくれた。とても感謝している。ただ、彼に私の心の奥底の浄化されていない思いを理解してもらうことは簡単ではなかった。彼は見ないようにすること忘れることで、私を楽にしようとしたが、私はたとえその時つらくても心のわだかまりを直視したかった。この本の中でももう思い出したくない、忘れたいんですと答えている人も多かった。その気持ちも言葉としてはわかる。ただ私はそれでは浄化されない。ここに書くことは、書くことが手助けになるかまだ確信はないが一つの試みだ。心に浮かんだことをぽつぽつ書くような、何の脈絡も技術もない文章を書くことが癒すことに役立つのかわからない。個人としての日記として残すかとも考えたが、よい意味で人の目に触れる前提で書いた方が、物事をできる限り客観的に書ける気がした。誰の目にも触れないと思って心の赴くままに書きなぐった文章は、これまで試したところ役に立ったとは思えなかった。

2023/10/09

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: ドキュメンタリー
感想投稿日 : 2023年10月9日
読了日 : 2023年10月9日
本棚登録日 : 2023年10月9日

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