学問としての教育学

著者 :
  • 日本評論社 (2022年2月14日発売)
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感想 : 12

まずは哲学書である本書を、一気に最後まで読み通せたことに我ながら感心している。もちろん、だからと言って全面的に理解できているというわけではない。それでも、ここに来て「本質観取」や「自由の相互承認」ということばの意味、どこからそういう考え方が生まれてきたのかということがおぼろげながら分かってきたように思う。腑に落ちれば、自分でそのことばを使うことができる。その段階に入ってきたように思う。本当を言うと、「良い教育とは何か」についての具体的な話を期待して本書を読み出した。実践編まで読めばと期待しながら読み進んだが、具体的な実践例はほとんどなかった。その中でも、少し考えたこと、考えていること。少人数が良いかどうかについて。これについては、以前、森毅が必ずしも良くはないと言っていたのを覚えている。クラスでうまくいかなかったときの逃げ場がなくなるからだろう。ただ、数学のみ少人数指導をするなどなら話は別かもしれない。学びの個別化について。本書には公教育というしばりが念頭にあるのかもしれないが、私が関わる塾の世界では、現在、圧倒的に個別指導が人気である。もちろん経済的なこともあり(授業料でいうと集合塾の1.5倍は必要)通いたくても通えない生徒も多いだろう。ただ内容的には、人間誰もが楽な道を選ぶと仮定するならば、個別指導だけで進めることには危険性が伴うと思う。皆が同じ内容を同じ時期に同じペースで学ばなければいけないとは思わないし、人によって切り捨ててもいいと思えるような内容もある。そう思って私も、一人一人に合わせて話はする。しかし、現状の受験システムを無視するわけにもいかない。残念ながら高校生までは(いや、いまは大学生でもかもしれない)やらされ勉強も受け入れざるを得ない。それでも、ものは考えようなので、無駄と思えることも楽しみながら学ぶことは可能だと思う。森毅ならば、「いましかやるときないから、やっといてもいいんちゃうの」と言うだろう。学び合いとか、教え合いとか、そういう時間も持たせてあげたいといつも思う。しかし、それに向けての時間と空間を準備しなければいけない。どこででもそれを許してしまうと、収集がつかなくなり、それぞれの学ぶ自由が侵害されることにもなりかねない。自習室ではそれぞれが集中して学べる時間と空間を確保したい。多くが満足しても一部の生徒が自分の学びを阻害されたと感じれば、それは良い教育の現場とは言えないと思う。どんな授業が活気があって良い授業と言えるのか。めいめいが勝手に発言できるのが良いのか。わくわくする授業とはどういうものか。宿題やテストで子どもたちを縛るのが本意ではない。しかし、それを課さなければ家庭での学習が進まないのも事実だ。そこのところも、個人差がある。だから、皆に一律で同じ課題を与えることに問題がある。いつかテレビで東大生が言っていた。「宿題なんて先生が授業を進めやすくするために出しているんでしょ。」いやそうではない。しかし、確かに無駄と思えるような課題を出す先生がいるのも事実だ。本当に良い教育とはどういうものなのか。誰にとっても良いということはあるのか。最低限守るルールは何か。「自由の相互承認」の感度を上げていくためには何をすべきか。いま、つれあいは横でうんうんうなりながら学年末テストを作っている。音楽教育において中学生に何を身につけさせるべきか。学習指導要領にあるものがすべて正しいのか。楽譜が読めることが音楽に対する感性を育むのか。まあとにかく具体的には考えるべきことが山積している。それでも、考え続けることが大切なのだと思う。ヒトは考える生き物だから。まずは、新年度ミーティングで「良い教育とは何か」の本質観取をしてみたいと思う。それと、余計なことではありますが、発見した誤植を一つ。P.209後ろから2行目「同賀性」はもちろん「同質性」の間違いですよね。最近こういう間違いが増えているのは、僕もよくやる、写真から文字を読み取る機能の読み取りミスに気付かなかったことから来ているのでしょうかねえ。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 苫野一徳
感想投稿日 : 2022年2月27日
読了日 : 2022年2月27日
本棚登録日 : 2022年2月21日

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