物と心 (ちくま学芸文庫 オ 7-3)

著者 :
  • 筑摩書房 (2015年1月7日発売)
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感想 : 4
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2017.2.1
近代の心身二元論、科学の罠を乗り越えようという認識哲学の作品。途中まで読んだ。
コップを見る、私がコップを見る、そうするとあちらのコップが、こちらに届かねばならない。何が届いているのか、それはコップの像である、私はコップそのものを見てるのではなく、そのものによって生成されたコップを像を見ている、そしてそれを生成したコップという実体がある。よって、私は、コップという実体による、コップという像を見ている。これを一般化するなら、主観ー現象ー客観ー作用、ということになる。このような主客分離、実体と像の分離を著者は批判する。客観を捉えようとする科学は、我々の世界を描写するひとつの方法であり、また我々の日常での物の捉え方も科学とは違うがひとつの世界の捉え方に過ぎない。像を見てるに過ぎず実体は見れない、のではない。科学的認識が真で日常的認識が偽ではない。この二つは上下関係ではなく平行関係にある、つまりそれぞれ視点が違うだけであるという。それを上下関係にするもんだから、真実は実体で像は嘘、真実は客観で主観は嘘になる。でも科学は我々の感情や過去の経験とかまさに主観的要素を排除した上で成立する真であり、限定的真と言わねばならない。この限定がまさに、科学が世界描写のひとつである所以である。それはそれ。そして、感情などの主観的要素もこみこみで捉える世界描写もまた、ひとつの捉え方である。
その通りだと思う、がしかし、それだとやはり、主観に対する疑いの眼差しの説明ができない。主観とは確実性の薄いしかし全的な世界描写である、しかし嘘ではない、私にとっては。客観は確実性が高くしかし限定された世界描写である。どちらも、方法は違えど、見ているものは世界であり、そして世界の切り取り方が違うだけである。これは主観と客観に対する我々の意味づけの変更であり、主観と客観という認識の仕方の存在の否定ではないだろう。だから、その通りだと思う、思うけど、でも説明になってないような気もする。それにどちらも世界描写に過ぎない、言わば主観的世界像と客観的世界像がそれぞれあるのであり、どちらも像であることに変わりはないという表象主義は、現象学以上のことを言ってるのだろうか。むしろそこに他者の主観という間主観性を入れた点で、フッサールの方がより包括的な説明の気がするんだが。まぁ全部読んでないからなぁ。
元々は野矢茂樹さんの「他者と心」を読んで、この本の批判的検討からその著書がでていることを知り、読もうと思ったものである。しかし現在の私の関心は認識論にあるのではなく、他者との関係における自我論、他我ー自我問題なので、今回はおいといて、また機会があれば読みたい。二元論、乗り越えたいっすね。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
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感想投稿日 : 2017年2月1日
読了日 : 2017年2月1日
本棚登録日 : 2017年2月1日

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