珈琲屋の人々第三弾。
以前の第二弾を読んだのが3年前だったので内容をよく覚えていないが、“昭和の夜のドラマ”という雰囲気は、やはり色濃く感じる。
前科のある珈琲屋のマスター、宗田行介(そうだこうすけ)、幼馴染で想いあう関係の辻井冬子(つじいふゆこ)、同じく幼馴染の島木。
悩める人々は迷える子羊のように珈琲店へと足を運ぶ。
口の重い行介にかわって、商店街一のプレイボーイで話術の巧みな島木が話を聞き出し、冬子が思い切ったアドバイスや審判(!?)を下すこともある。
良いトリオかもしれない。
結果として行介の人殺しは商店街を救ったため、英雄視される一面もあり、子供の頃から住み続けた町でもあるので、石もて追われることはない。
しかし、“前科者を見る堅気の人々の目”というものが常に存在する。
行介を“人殺し”と好奇の目で見ながらも、救いを求める人々が珈琲屋を訪れてやまない、それはどういう心理なのだろうか。
共通するのは、悩みの他にある“罪の意識”というものだ。
皆、罪深い。
そして、非常に自分勝手だ。
それが人間というものなのだろう。
訪れる女性たちが口にする「男はずるい」という言葉、「人間は弱いから、自分では半分しか決められない。あとの半分は他人任せ」というセリフが鋭い。
行介は、責任を半分逃れた人の罪を代わりに背負い、悲しみ、欲を持たず、癒しの珈琲を出し続ける…まるでメシアのようではないか。
1巻目では秘めていた冬子の想いも、巻を追うごとにあらわになり、行介との関係は、この巻では各短編をつなげる一本の大きな流れになっている。
『恋敵』『ヒーロー行進曲』『ホームレスの顔』『蕎麦の味』『宝物を探しに』『ひとつの結末』『恋敵』
- 感想投稿日 : 2018年8月24日
- 読了日 : 2018年8月24日
- 本棚登録日 : 2018年8月24日
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