神話が考える ネットワーク社会の文化論

著者 :
  • 青土社 (2010年3月25日発売)
3.42
  • (7)
  • (25)
  • (27)
  • (10)
  • (0)
本棚登録 : 411
感想 : 23
3

 「記録や情報は本来的には人間に<記憶される>客体であるが、人間に記憶された瞬間にそれは主体となり、逆に我々を客体として<支配する>というパラドックスが生じるのではないか」

 「言葉と無意識」(丸山圭三郎)を初めて読んだときに、私はそのような疑問に思い至ったことがある。
 「神話が考える」において、そういった疑問に対する違和感を「客体の優位性」として、分かりやすく回答しているのが印象的だった。現在において社会はそういった『神話』で埋め尽くされており、人間は既にその『神話』…情報を媒介するメディアにすぎない。

 客体である情報は本来、我々に「摂取される」存在であるはずだ、だが、数々の情報を自分の中に摂取するうちに、疑問を感じたことはないだろうか?
 
 自己とは『一つの統一体』<ゲシュタルト>という神話が長く存在してきた。それはある意味では間違いであるように思う。実際の自己とは、それぞれ異なる時間・場所で摂取された、数々の情報の『無差別的な集積体』<ディスオーダー>にすぎない。自己とは、統一体に見えて、実のところ混沌としている。完全なる主客転倒ではなく、完全なる主客合一でもない。両方の中間を行くマージナルな存在が、私たちなのだ。

 本書の主要な議論は、前述したような自己に関する記述ではない。むしろ、現代の文化を新しい観点から読み解く文化論である。それは『レヴィストロースから東方プロジェクトまで』と、東浩紀の書いた扇情的な文句からも読み取れる。
 そういった人類学の権威と、一介のサブカルチャーを並列する試みは一見危険のように思えるが、しかしそのような知の権威付けを一旦無化し、あらゆる文化・知を同じ土俵の上で論じることは、今後の文化・社会批評においてかなり重要になっていくのではないか。また古典哲学のみでなく、同世代の批評家の積極的引用や、流行のサブカルチャーを躊躇無く批評に組み込んでいることからも、『イマ』を評価するということへの熱心さが伝わってくる。

 まぁ、西尾維新論に関してはやっつけなきがするけどw

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 思想
感想投稿日 : 2011年7月28日
読了日 : 2011年7月28日
本棚登録日 : 2011年7月28日

みんなの感想をみる

コメント 0件

ツイートする