アヴェロワーニュ妖魅浪漫譚 (創元推理文庫)

  • 東京創元社 (2011年12月21日発売)
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・クラーク・アシュトン・スミス「アヴェロ ワーニュ妖魅浪漫譚」(創元推理文庫)は「ゾティーク 幻妖怪異譚」「ヒュペルボレオス極北神怪譚」に続く訳者大瀧啓裕によるC・A・スミスの短編集である。先の2冊は架空の地の物語であつ た。今回のアヴェロワーニュは実在の地名ではないが、フランスの一地方を指す地名であるらしい。架空と言へば架空の地名である。しかし、 前2冊が全くの想像上の世界であつたのに対し、こちらは現実世界をモデルに持つらしい(大瀧啓裕「解説」413頁)。それがスミスの意図 するところであつたかどうかは別にして、この点が作品に大きく影響してゐる。一読して明らかなのだが、アヴェロワーニュの物語は人間的で ある。あるいは世俗的と言はうか。例のクトゥルー神話と関係があつても、決して神中心の物語、敢へて言へば、神話にはならない。あくまで 人間が中心の物語である。更に言へば、本書には妖魅浪漫譚なる書名がついてゐるが、この妖魅なる用語は必ずしも適当ではない。妖といふ字 には妖艶につながるイメージがある。日夏耿之介の「吸血妖魅考」もこのイメージをねらつたものと思ふが、ここではこれはじやまである。さ ういふものを持たない用語で、ごく単純に怪奇とでもつければ良い。魔法もここから出てくる。物語に於いて、中世ヨーロッパと魔法は密接に 結びついてゐる。アヴェロワーニュもまた魔法の跳梁跋扈する世界である。妖しいよりは怪しいのである。怪奇で浪漫だからこそ人間なのであ る。
・正確にはアヴェロワーニュの物語ではないのだが、本書の最後に「降霊術奇譚」と題された6編の短編がある。ここに「分裂症の造物主」と いふ一編がある。これはパロディーであつて、「造物主、神は一人しか存在」(355頁)しないが、その「神は二重人格、ジーキルとハイド のようなものにちがいな」(同前)いといふ内容である。端的に、神と悪魔は裏表、である。召喚される悪魔ビフロンスは異形である。しかも 逢ひ引き中に召還されたから機嫌が悪い。主人公はそれを電気ショックで神に戻さうとする。しかし失敗、精神病院送りとなる。サタンはそれ を確認すると、「わたしはしばらく出かける」(364頁)といふわけで「地獄の小さな裏口に達し」(同前)、そこから「敷居を超えて天国 に入っ」(同前)ていくのである。これは神ではない。裏表のある、正に人間である。少々極端だが、アヴェロワーニュもかういふ世界であ る。「アゼダラクの聖性」もこの種の物語であらう。「ウェヌスの発掘」の修道士を抱擁してゐたウェヌス、「アヴェロワーニュの獣」の修道 院長、さうして「怪物像をつくる者」の大聖堂の怪物像、これらもまた同様の存在であらう。クトゥルーの神々の如く、善に徹することも、悪 に徹することもできぬ存在である。そんな中で、「イルゥルニュ城の巨像」は悪に徹してゐる物語であらう。師ナテールとその弟子ガスパー ル、これが悪と善である。ナテールは死に際して、己を巨人に造りかへようとする。成功したかに見えたがである。転向したガスパールはそれ でも善に徹したのであらう、至誠天に通ずである、ナテールの野望を阻むことができた。これなども転向があり、そして教会は無力であるがゆ ゑに、神ではなく人間の物語である。このやうに、アヴェロワーニュは前2冊と比べると格段に読み易い。これは私が俗人であるといふだけの ことかもしれない。それでも「幻妖怪異譚」や「極北神怪譚」の間にはさまれば、かういふのは息抜きになる。人間は、世俗はおもしろい。結 局はさういふことである。私は短編集「イルーニュの巨人」を思ひ出しながら読んでゐたのであつた。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
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感想投稿日 : 2012年2月29日
読了日 : -
本棚登録日 : 2012年2月29日

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