『書物の愉しみ 井波律子書評集』のmyjstyleさんのレビューから、中国の古典作品などに興味が湧いてきたところに、おすすめしていただいた本です。ありがとうございました。
とても読みやすくて面白い奇想小説集だった。中国ってなんて摩訶不思議な物語の宝庫なんだろう。
井波律子先生の解説を簡単にまとめながら、感想を……
この小説集には、〈六朝〉〈唐代〉〈宋代〉〈明代〉〈清代〉と1500年以上にわたって著されつづけた、おびただしい数にのぼる奇怪な怪異譚および奇妙奇抜な物語等々のなかから選び出された26篇の作品が収録されている。
中国では怪奇幻想に彩られた奇想小説を、志怪(怪をしるすの意)小説と総称する。
奇想小説が盛んに著されるようになった六朝時代、六朝志怪小説のジャンルを確立させたのが『捜神記』の著者干宝である。干宝は西晋の歴史を記した『晋記』を完成させ、「良史(りっぱな歴史家)」と称賛されていた。
そんな良史である干宝が、怪異現象に興味をもつようになったのは、墓に埋められた者が十数年を経て再生したり、息絶えた兄が数日後、蘇生し、死後の世界を語るなど、彼の身辺につづけて奇怪な事件が起こったからだという。
超現実的な事件を目の当たりにした干宝は、古今の書物に記載されたり、口頭で伝承されたりしてきた幽霊譚や妖怪変化譚など、ありとあらゆる怪異な話を網羅的に収集して、『捜神記』を編纂する。すなわち、歴史家干宝にとって『捜神記』に収録した怪異な話は、けっしてフィクションではなく、あくまで不思議な事実なのである。
えー、夢かなんかじゃないの?と言いたくなるようなきっかけだ。奇怪な出来事って解明したくなる気持ちが少々沸き起こるんだけど、それは無粋というものか。これが〈事実〉なんだから、このままの方が、断然面白いよね。
『捜神記』からは、墓に埋められた娘が生き返った「王女の贈り物」、おんぶした幽霊を売りとばした「おんぶ幽霊」が収録されている。
他に六朝時代の作品として、
陶潜著『捜神後記』から「桃花源」「地獄の沙汰も腕輪次第」
劉義慶著『幽明録』から「常春の異界」「白粉を売る女」
呉均著『続斉諧記』からは「籠のなかの小宇宙」が選ばれている。
なかでも〈入れ子細工のミクロコスモス〉と解説される、「籠のなかの小宇宙」は印象に残った。ある男が山中で、足が痛いから男の背負っている籠のなかに入れてほしいと頼む書生と出会う。やがて男がひと休みすると、籠から出てきた書生は口から、料理の詰まった精巧な箱や、妻なる美少女を吐き出す。さらに美少女が愛人の若い男を吐き出し、その愛人がまた……という〈入れ子細工〉型のストーリー。
とてもユニークな話の展開でありながら、読みこんでみると、実は秘密や裏切りに彩られたサスペンス調の味わいもあることが伺える。
この〈人の身体のなかから、次々にものが吐き出される〉という発想の原型は、インドから中国に伝わった仏典にあるというのが通説らしい。
わたしが唯一、知っていたタイトルが〈明代〉の瞿佑著『剪灯新話』に収録されている「牡丹灯籠」だ。
ところが内容は、わたしの知っている三遊亭円朝のおどろおどろしく、聴いたら(読んだら)最後、夜寝ることができなくなる、あの「怪談牡丹灯籠」ではなかった。恐怖のなかにもどこか滑稽な要素も盛り込まれていて、受ける印象が全く違うのである。これには驚いた。
また時代を追うにしたがって、だんだんと志怪小説の作風というものが変化していくのが何となく見えてくる。
宋代の奇想小説では、まだ六朝志怪風の記録型であった物語が、明代に至ると、唐代伝奇を受け継いだ物語型の奇想小説が主流となる。
さらに明清の物語型の奇想小説は、唐代伝奇小説の作者のように、怪異な話を対象として「ものがたる」のではなく、現世に失望した作者がみずからの鬱屈した思いを、イメージ化し、表出しようとしたところから生まれたものだといってもよいとの解説に納得した。
最後に井波先生は、〈中国の多くの文人たちにとって、事多き現実にうんざりし、「この世の外ならどこへでも」という気分になったとき、奇想小説を書いたり読んだりするのが、何よりの「消遣(気晴らし)」だった。現実社会に問題が山積みしているのは、いずこであれ昔も今も変わらない。ここに収めた粒よりの中国奇想小説群が、「今ここに」練りあげられた「気晴らしの文学」として、いきいきと甦ることを願うばかりである。〉と綴られている。
それならば、わたしもこの奇々怪々な世界を、今日は、ただただ楽しもうではないか。事多き現実には、また明日から向かえばいいやんな。
- 感想投稿日 : 2020年9月7日
- 読了日 : 2020年9月7日
- 本棚登録日 : 2020年9月7日
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