欲望会議 性とポリコレの哲学 (角川ソフィア文庫)

  • KADOKAWA (2021年12月21日発売)
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感想 : 7
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この本を読んで思い出した事があります。

もしかしたら何かの偶然で千葉さんや柴田さんの目に止まる事もあるかもしれないとも思い書いておきたいと思いました。またどうか一人でも多くの方の目に止まればなと思っています。


ジェンダーやトランスジェンダーという言葉を聞くようになったのは、2000年の初めの頃でした。
当時、自分はファッション業界で仕事をしていて、ゲイの多いファッション業界とその周辺ではとても身近な話題となっていました。当時のマルタン・マルジェラやジャン・ポール・ゴルチェなど多くのメゾンがコレクションのテーマにしていたシーズンがあった事も記憶にあります。ゴルチエ本人の口から聞いた事も覚えています。また当時のフランスではファッションデザイナーと哲学者の距離がとても近く、ジェンダーという超えられないものを超えていくという事はどういう事なのか?という哲学の命題足りえるトピックは当然、フランスの哲学者の興味を惹いていましたし、そんな哲学者からの影響がパリのファッション業界にも伝播したのは間違いない、そんな印象でした。

そして当時の議論はどういうものだったかというと、ジェンダー・性差というもの確かに存在するものである、また変えられないものである、でもだからこそ、それを超えていくという事には価値があるのではないか?…というものでした。

なるほど哲学的でもありファッションデザイン的でもあり、議論する価値のある事だと思いました。しかしながらその後自分はファッション業界からも哲学からも遠ざかり、ジェンダーやトランスジェンダーについて議論する事もなく話題にする事もなく暮らしてきました。

そしてこの本を読んで思い出したのです、昔、哲学者やファッションデザイナーが議論したりコレクションで作り上げたジェンダー・トランスジェンダーの議論はどう紆余曲折したり、または決着などがあったりしたのだろうかと。

ところが……調べても調べても何も出てきません。

フェミニズムやゲイの歴史はインターネット普及以前の事であってもネットでもいくらでも調べれば出てくるのに、ジェンダーやトランスジェンダーについて問題提起をしたパイオニアである彼らの議論をネットで記事にしていたり、または出版されているものに書かれている事もありませんでした。

ただ一つ分かった事はありました。

僕がそこを離れてから間もなく、2000年代初頭にアメリカからジェンダーフリーなる運動が始まったそうです。

前述のとおり、認識問題を解明する哲学者達や世界を作り上げるファッションデザイナー達が、ジェンダー・性差というもの確かに存在するものである、また変えられないものである、でもだからこそそれを超えていくという事には価値があるのではないか?…という議論をしている所に土足で上がり込んできて、ジェンダー?そんなものねぇよバカじゃねぇの!という暴言暴論をいきなり展開したわけです。これがジェンダーフリーの正体です。

またこの運動は日本でもあったらしく、なんとあの香山リカという人がその言葉を盛んに口にしていたという事も知りました、もうだいたい話の行き着くところ想像つきますよね…

2000年代初頭の二階堂奥歯さんの日記の中にジェンダーやトランスジェンダーという言葉があるのを知った、というような記述があったのでその頃おそらく、日本でも何かしらの話題や議論があったのだと思います。そして呼んでもいないのにやって来た、デカい声で叫ぶだけのジェンダーフリー運動家が議論も反論も受け入れるはずもなく、キレたりゴネたり厄介者扱いされたりしてタブー化して、触らぬ神に祟なしで言い分が通った格好になったのは、昨今の自称フェミニストや自称アクティヴィストを見れば想像にかたくないでしょう。そして今日、一企業などまでもがジェンダーフリーなる言葉を当たり前のように使う時代・現代になってしまったのだと、心の底から残念な気持ちになりました。フランスでもきっと同じような事があり当時の哲学者達が興味を失ってしまったのだとも思いました。

ジェンダーという議論する価値のあることを台無しにしたブチ壊した張本人達が確かに存在する事実に怒りで震えます。そして都合の悪いことは無かったことにするあいつらのいつものやり口です。

全ては僕の知る事実からの推測に過ぎませんが、当たらずとも遠からずといったところではないでしょうか。

ジェンダーフリーを受け入れられるアメリカが先進的なのだと言う自称知識人や自称米国在住の方もいらっしゃるでしょう。しかしNYマンハッタントライベッカに暮らしていた自分から言わせると、アメリカ人は人種に関わらずブスにはブスとデブにはデブとはっきり本人の前で言うし、だからこっちには来るなとも言う、それから自分と違うクラス・階級やカテゴリの人間はたとえ目の前に居たとしてもそこに存在しないものとして振る舞える人達です。黒人奴隷にもそうしていましたね。目の前の人間とは議論どころか会話もしない、拒絶するのが当たり前、ジェンダーフリーとはアメリカ人らしい言葉だと思います。もちろん全く褒めてはいません。

ジェンダー・性差というもの確かに存在するものである、また変えられないものである、でもだからこそ、それを超えていくという事には価値があるのではないか?

この議論を千葉雅也さんのような新進の哲学者や柴田英里さんのような才気溢れるアーティストに復活させてもらいたいのです。あの頃のパリでなされていたように。そしてジェンダーのトピックスや問題を正しく導いて欲しいです。

お二人とも若くていらっしゃるので、昔々そのような議論があったことはご存知ない事だと思いました。そして読書の感想としては間違ったものかもしれませんが、この本を読んで書かずにはいられなくなった事でした。


はっきり言って昨今のジェンダーやトランスジェンダーの話題には違和感しかありません。そもそも何の話をしているのかも理解できない。

女装をすれば女になれる?
性器を切り取れば異性になれる?
クリトリスを切除するということはそういう意味ではないでしょう?
ジェンダーとフェミニズム、何の関係がありますか?

あなたたちのオリジナルマルクス主義は絶対に認めません。


フランス革命は失敗して恐怖政治が始まった、あなたたちのせいで。

アーレントならきっとそう言う。

読書状況:積読 公開設定:公開
カテゴリ: ノンフィクション
感想投稿日 : 2022年3月15日
本棚登録日 : 2021年12月19日

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