毛利は残った (角川文庫)

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  • KADOKAWA (2022年10月24日発売)
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毛利輝元は天文二二年一月二二日(一五五三年二月四日)に生まれる。幼名は幸鶴丸。毛利元就の嫡孫であり、毛利隆元の長男である。毛利氏は鎌倉幕府草創の名臣である大江広元の四男季光を祖とする一族である。

祖父の毛利元就は国人領主の毛利氏を九州の大大名にした。敵を調略して内部崩壊させることを得意とした武将であった。輝元は父の急死によって家督を相続した。織田信長と対立したが、備中高松城で羽柴秀吉と講和を結び、本能寺の変後は秀吉に属す。豊臣政権下では五大老の一人になる。

輝元は関ヶ原の戦いでは精彩を欠けた。輝元が大坂城から動こうとしなかったことは三成の誤算であった。三成としては輝元に兵を率いて出陣してもらいたいが、輝元は頑として動かなかった。輝元については様々な見方がある。

第一に担がれただけの無能説である。本気で家康と対決するよりも場当たり的に兵を送って手薄そうな所を攻めた凡将と評価される。大坂城にいる限り、輝元の安全は保障されているために出ようとしなかった。これが伝統的な見解である。

輝元は飽食の罪に陥っている。大阪城にいれば朝から酒を飲むこともできる。出陣して陣中にいれば飽食ができない。有能の家康と無能の輝元、粗食の家康と飽食の輝元が対比される(近衛龍春『毛利は残った』角川文庫、2022年)。

第二に元就譲りの陰謀家とする見解である(葉室麟『風の王国 官兵衛異聞』講談社 、2009年)。輝元は四国から九州北部には活発な軍事行動を行っていた。関ヶ原の合戦後は安易に屈服したが、それは黒田官兵衛のせいである。官兵衛が北九州を席巻し、中国地方に上陸する勢いであったために輝元も徳川家康に弱気に姿勢をとらざるを得なかった。

第三に戦国大名説である。陰謀家説は大阪城から出陣せず、関ヶ原の合戦には消極姿勢を持っていたことと矛盾する。この二面性に戦国大名説は回答を出している。輝元は自身の領国拡大を目的にしていた。それ故に自領の延長線上にある四国や九州への軍事行動には積極的であった。領土が拡大すればよく、豊臣と徳川の関係はどうでも良かった。天下を意識していた徳川家康とは役者が違っていた。

同じことは上杉景勝にも言われる。景勝は徳川家康を追撃せず、最上攻めを行った。景勝は義の人とされるが、天下ではなく、領国の拡大という戦国大名的発想であったとする。しかし、家康は宇都宮に結城秀康を残し、備えは万全であって、追撃したくてもできなかったという面がある。徳川の大軍を自領に誘い込んで迎撃する構想であり、関東に攻める兵站の準備はなかった(岩井三四二『三成の不思議なる条々』光文社、2015年、338頁)。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 小説
感想投稿日 : 2023年8月19日
読了日 : 2023年8月19日
本棚登録日 : 2023年8月19日

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