李陵・山月記 (新潮文庫)

著者 :
  • 新潮社
3.98
  • (544)
  • (411)
  • (487)
  • (27)
  • (9)
本棚登録 : 4896
感想 : 499
5

先日、この版の素敵なレビューを目にして、はて? うちの「虎」はどうなったかな、久しぶりに書架を漁っていると……心なしか痩せて黄ばんだ虎が出てきた。これはいかん、たまには虎を干して遊ばねば!

中島敦といえば、その重厚な漢文体が美しい。この本には『山月記』『名人伝』『弟子』『李陵』が掲載されている。それぞれの分量は少ないものの、その中身たるや、押し鮨のようにぎっしり詰まって読みごたえ満載だ。しかも中島敦の漢籍の知識は容赦ない。ふつうの人なら注釈がなければ読み通すことは難しいけれど、親切な新潮社のそれを参考にしながらゆっくり読めば、なんと豊かな作品たち! なんど読んでも読み尽くせない面白さがぎゅっと詰まっている。

***
頭脳明晰で才走る官吏の李徴。後世に名を残そうと出世コースを降りて詩作の道に進むも、芽はでない。己の才を認めない世間を恨み、憤怒と妄執にとらわれた李徴は、ついに異形のものに姿を変えてしまう(『山月記』)。

こういう変身譚は、ギリシャ神話やオウディウス『変身物語』、カフカの『変身』などなど、古今東西にもたくさんあると思うけれど、『山月記』は、かなり深遠な作品だと思う。社会的地位や身分、自尊心や克己心を容赦なく引き剥がして、あらわになった虚栄心やおごり、無知に怠惰、憐れな人間の性や業をさらけだす。結局のところ、人間という存在の最後に残るのものはなんなのか? そんなすさまじい気を放ちながら、異形のものは躍動し、慟哭する。

***
うってかわって『名人伝』は軽妙だ。弓の名人を自負する男がさらなる名人を求めて旅に出る。果たして至高の名人と称される老に巡り合うのだが……。
無知の知を心に留めておけば、おのずと真の知の道(タオ)に至るということか……笑? どこか昔話や寓話のような雰囲気が漂っていて、くすっと笑える可笑しみが埋め込まれて楽しい。

***
孔子の伝記をもとにした『弟子』。孔子が率いた多くの弟子の中から「子路」が選ばれているのは興味深い。もし才気煥発で政治力に長け、人格も優れた弟子「願回」あたりが主人公だったら、間違いなくおもしろくないものになっただろう。かといって、切れ者でそつのない「子貢」では、読み手はうんざりしてしまうかも。それゆえに猪突猛進で義侠心にあふれ、ズレているけれど憎めない「子路」という人間臭いキャラクターが活きてくる。暑苦しい子路とクールな孔子をやりとりさせたからこそ、彼の人間性や仁愛、とりわけ子路への憂愁や思慕があざやかに映しだされる。

***
『李陵』の舞台は漢の武帝の時代。匈奴との戦いに敗れて俘虜になった武人李陵の葛藤と半生を、さらに大著『史記』をものした歴史家司馬遷の辛苦を絡めたオムニバスの大河ドラマ。

今回読みながら、この4つの物語にちょっとした特徴を感じつつ――作品の分量にこだわらず――独断と偏見で切り分けてみた。『山月記』と『名人伝』は短編で、『弟子』と『李陵』は長編という具合で。

ちょうど大木を根元ですぱんと切ると――ときどき行政が公園の大木を容赦なく切って、悲しく憤るが――その切り口から放たれた生なましい匂い、ギョッとするような面の白さ、ときに樹液が垂れて、おどろおどろしい血を連想させる。短編はそんな一つの切り口に迫り、さまざまフォーカスしていくわけだけど、おそろしく気を張り詰め、言葉が凝縮されて行間を読むのも難解なので、すこし苦手意識がある。でも中島敦の『山月記』と『名人伝』は、鮮やかな切り口にシンプルにフォーカスしながら、滑稽な笑いもあって楽しいのだ。

それに対して、大木を切らず根元から頂上まで、枝葉をフォーカスしたり、引いたりしながら木の全体像を描写していく長編は、登場人物に寄り添いやすい。だから道のりは長く、たとえ剣呑でも、ちょっとしたピクニック気分になるから楽しい。

そして中島敦はどちらも巧いな~と感じる。あえていえば短編の筆が冴えている気がするけれど、いずれにしても、流れるような文体は怜悧で美しい……なんて余韻を残しながら、表紙の黄ばんだ虎をなでて本棚に返した。また近いうち遊ぶ約束をした。そのときにはどんな発見があるのか楽しみだな(2022.7.5)。

読書状況:未設定 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2022年7月5日
本棚登録日 : 2022年7月2日

みんなの感想をみる

コメント 8件

ハイジさんのコメント
2022/07/05

アテナイエさん

相変わらずレビューが素晴らしいです!
尊敬!

確かに短編はキリッと冴え渡るアサヒスーパードライな感じ
長編はコクが命の昔のモルツのような深い味わい
(すみません 単なるビール好きです)

私も時間をおいて何年後に再読するのが楽しみです!
その時どう感じるのかしら…

アテナイエさんのコメント
2022/07/06

ハイジさん、おはようございます♪

レビューをお読みいただき、また嬉しいコメントまでいただいて、感謝感謝です! ありがとうございます。

こちら、先のハイジさんのレビューを拝読して、久しぶりにむずむずと読みたくなった中島敦でした。ハイジさんのおかげで、虎とも遊べました。満足、満足(^^♪

じつは少し前に「河童」連中とも遊んだんですが、今回、久しぶりに中島敦をながめてみると、どこか芥川と似ていて、自己存在の危うさを思わせる、のっぴきならない迫力がありますね。それにくわえてクールな漢文体ですから、もう吠えたくなります。

>確かに短編はキリッと冴え渡るアサヒスーパードライな感じ
長編はコクが命の昔のモルツのような深い味わい

これは素晴らしい例えで、いいですね~! 
ハイジさんはビールがお好きなんですね。私も好きですよ~でも油断すると太るので自重気味です。でもですよ、夏はそういうわけにはいきませんよね! しまいには、これを飲むために走っている、やれやれです(汗)。中島敦はビールのように、ワインのように、巧いですね♪

地球っこさんのコメント
2022/07/06

アテナイエさん
ハイジさん
こんにちは♪

アテナイエさんの“うちの「虎」”さんへのお気遣いに、可笑しさとともにキュンとときめいちゃいました。
「たまには虎を干して遊ばねば!」
なんて可愛いの!

そして、ハイジさんの長短編に対してのビールのたとえ!
これから小説を読むとき何度も思い出しそうです。

そして、お二人のこの小説のレビューは最高です。

「山月記」は、娘がたしか高校生の頃かに授業で学習し、とても気に入ったようで、ふたりでワチャワチャと語りあった時がありました。

わたしは「山月記」しか読んでいないと思ってるのですが、なぜだか中島敦は大好きな作家さんです。
たぶん、お顔が好みだから……笑
女学校の先生をしているときにモテモテだったとか……
そういう情報ばかり仕入れてないで、私も読んでみたいと思います(’-’*)♪

地球っこさんのコメント
2022/07/06

アテナイエさん

今、東欧(ポーランド)文学、オルガ・トカルチュクの『昼の家、夜の家』を読んでます。
今のところ、思っていたよりは読みやすくて、引き込まれてます(*^-^*)

ハイジさんのコメント
2022/07/06

テナイエさん
「河童」が未読なので読まなくてはいけません(笑)
確かに中島敦も芥川も極限の精神状態から生み出された所以か、重厚で緊張感のある凄みを感じます
それなのにユーモアがあるあたりがイイですね
アテナイエさんがビール好きで良かったです♪
ビール好きの人にしか伝わらないかなぁ…と
長編はフルボディの芳醇なワインに例えた方が良かったですね!
私は夏は「暑い」と言い訳し、冬は「寒い」と言い訳し…
ランニングがはかどりません
困った困った…


地球っこさん
お顔が好み…
笑ってしまいました!
いえいえそういうの大事ですよね
「好き」という気持ちは貴い!
でも確かにモテそうなお顔と雰囲気がありますねぇ
そういう目で全く見ていなかったので新発見です!

アテナイエさんのコメント
2022/07/06

地球っこさん ハイジさん

地球っこさん、こんにちは! 

レビューをお読みいただき、またコメントもありがとうございます!
ちょっとよれよれのうちの「虎」を陰干ししたら、少しさっぱりしたようです(笑)。 

それにしても、娘さんと『山月記』を話せるとは、なんと楽しいこと!
彼の文体に惚れこんだのでしょうかね。わずか10ページほどの短編ですが、躍動感があって、妖しくておもしろいですものね。この本のカバーも切ない虎が……なんだか猫にも熊にも見えるけど。

もっとおもしろいのは、地球っこさんが、中島敦の顔が好みだということです。ハイジさん同様に大笑いしました。さすが韓流イケメンファンです。たしかに端正なお顔で、ちょっと暗そうなところもいいかも。一体どんな声をしているのでしょうね。あの顔で漢詩を朗々と詠んだりしたら、相当いけてますよね、そんな授業を受けてみたい!

ハイジさん、こんにちは~。

はい、わたしはビール党ですね。ほっとったらカバみたいにのみます。ちょっと走ったくらいではとても消化しきれません。なので普段はカバのようにお水で我慢してます。ウソです!  

先日、ハイジさんも芥川を読まれていたようなので、いつか「河童」とも遊んでみてください。彼が逝くちょっと前の作品で、意味深長で滑稽で哀しくておもしろいです。

あっ、地球っこさん!
たしかノーベル賞を受賞した方ですよね、オルガ・トカルチュク。いいですね! わたしはまだその方の作品を読んだことはありません。またどんな感じだったか教えてもらえると嬉しいです(^^♪


 



地球っこさんのコメント
2022/07/06

アテナイエさん
ハイジさん

娘と盛り上がったのは何だったのか、ちょっと忘れてしまったのですが、そういえば芥川の『羅生門』も、母娘で好みが珍しく一致しました。最後の一文の余韻がね、痺れたんですよ。

本のカバーの虎さん、うふふ、今度じっくり実物を眺めてみますね。

で、アテナイエさんからの中島敦と韓流スター☆
なるほど!自分では気づきませんでしたが、そこか!
そこが無意識に気になっていたポイントだったのかーo(>∀<*)o
それにハイジさん、「好き」という気持ちを貴いと言ってくださって、なんか嬉しい~♡

そして、オルガ・トカルチュク。そうです、帯に2018ノーベル文学賞受賞となってました。
そうだアテナイエさん、図書館で『大統領の最後の恋』を見つけたのですが、その分厚さにびっくりしました。

でもこの本は手元に置いて、ゆっくり読みたい本なので、天の邪鬼な私は、図書館で借りて簡単に読めるのが、何だか悔しくてまだ借りることができてません 笑
でも絶版で中古本もびっくりのお値段ですものね。
運命の出会いを待ちたいんだけどなぁ~(^o^;

アテナイエさんのコメント
2022/07/06

地球っこさん

こんばんは~。『大統領の最後の恋』を見つけたのですね。
レンガみたいに分厚くて楽しそうでしょう。でも中は余白が多くて読みやすいですよ。いつかながめてみてください。

この小説では、ウクライナとロシアの間には不穏な描写はいくつかありますが、実際の戦争の描写はありません。でも現実のウクライナ情勢はもっとシビアで悲惨です。はやく平和を取り戻してほしいと願うばかりです。

ツイートする