ツナミの小形而上学

  • 岩波書店 (2011年7月29日発売)
4.21
  • (8)
  • (8)
  • (2)
  • (1)
  • (0)
本棚登録 : 100
感想 : 4
4

 フランスの科学哲学者ジャン=ピエール・デュピュイが、リスボン、アウシュヴィッツ、ヒロシマ、ニューヨーク、スマトラといった地名によって指し示されるカタストロフィーと向き合い、それを今も産み出しつつある悪を見据えながら、いかに未来へ向かいうるかを探る真省察。とくに前半が思弁的に見えるが、科学哲学者の科学的知そのものへ向かう真摯な考察が見られる。それは、ギュンター・アンダースが寓意的な人物像として描くノアが行なう明日の死者への哀悼としての予言を出発点として、それに耳を傾けない──それはプリーモ・レーヴィが描いたように、アウシュヴィッツ=ビルケナウに到着してもなお、虐殺を信じないことに極まるだろう──という問題に、主に二つの視点から切り込んでいく。その一つは、今なお根深い開発信仰と一体となっている、人間に限界を突きつける問題をすべて科学と技術の問題に格下げしてしまう思考の批判である。日本で「安全神話」を作り出した、またそれを批判する側にも見られる技術信仰、とくに「持続可能な開発」を称揚する論理に対する著者の批判は手厳しい。もう一つは、これと通底している、そしてアイヒマンに代表される、思慮と想像力の欠如に抗することである。それによって、システム論的とも言うべき悪が一つの全体を構成しているのだ。そして、技術信仰と思慮の欠如が相まって、一方では「ツナミ」の語が代表するように、暴力の秩序に収まらない悪を自然に還元して思考停止に陥る一方、なおも科学技術の進歩にすがろうとする、矛盾した態度が蔓延するなか、人類は自分自身の終末を用意しつつある。アンダースが喝破したように、ヒロシマ以後、未来はもはや滅亡への猶予に成り果てたのだ。その現実に覚醒することをデュピュイは説く。それは、ノアの予言を真に受けて、自分を未来の犠牲者と考えることでもあるという。ただしそのような思考は、すでに起きた破局の犠牲者の哀悼とともにしかありえないはずだ。それをつうじて──今流行の「希望学」とは対照的に、と言うべきか──破局としての未来を考え抜き、それまでの猶予を狭めつつある「進歩」に抗うこと。その力を、ベンヤミンは「微かなメシアの力」と呼んだのではなかっただろうか。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 哲学
感想投稿日 : 2011年8月26日
読了日 : 2011年8月26日
本棚登録日 : 2011年8月26日

みんなの感想をみる

ツイートする